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庭を歩いてメモをとる

おもしろいことや気になることのメモをとっています。

ビリー・ジョエル「ハートにファイア」の歌詞の意味 その5

1964~89年

"Birth Control"

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「中絶論争」「ピル登場」「産児制限」

"Birth Control"が具体的に何を指しているのかが不明ですが、考えられるものを挙げていきます。

その1。この頃から、世界の一部で「中絶=違法」の枠組みが変化してきたこと。中絶の是非についての議論は以前からあったようですが、論争が激しくなったのはこの頃からなのかもしれません(未確認)。特にアメリカでは、意見が人によって真っ二つに分かれる問題のようですし。

その2。1960年、アメリカでピルが認可されます。錠剤をのむだけで避妊できるし、妊娠したいときは服用をやめればよいという手軽さ、また避妊率はただしく使用すればほぼ100%と高いうえ、男性の協力をえられなくても避妊できるという確実性もあって、避妊法としてもっとも普及するに至っています。日本ではつい最近まで認可されませんでしたが。(本件についてはK.Tさんから情報をいただきました。ありがとうございました。)(2004.4.15)

その3.1970年代末、中国で「一人っ子政策」が始まります。20代後半までの結婚延期を奨励するとともに、産児制限なども含んだ内容です。これにより、94年の出生率は1.8%と建国以来の最低を記録しました。

"Ho Chi Minh"

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「ホー・チ・ミン死去」

1969年、ベトナムの革命家ホー・チ・ミン(本名グエン・タット・タイン)が79歳で死去します。彼の一生は、ベトナムの独立をかけた戦いの連続でした。

ベトナム共産党の設立メンバーだった彼は、1945年、日本の支配に抵抗しベトナムを独立に導き、ベトナム民主共和国の初代大統領に。しかしかつての宗主国フランスが戻ってきて、ベトナムを再び支配しようとしたためインドシナ戦争が勃発。ディエンビエンフーの戦いでベトナムが勝利を収めますが、結局ベトナムは南北に分断。今度はアメリカがこれに介入しベトナム戦争の泥沼に突入。戦争終結を見届けないまま、ホー・チ・ミンは死去してしまいます。

ベトナム戦争終結後、サイゴン市は、日本、フランス、アメリカを相手に戦い続けた彼をたたえ、ホー・チ・ミン市と改称されました。

"Richard Nixon back again"

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「ニクソン政界復帰、アメリカ大統領に」

苦学して弁護士になり、1950年に上院議員、1953年に副大統領にまで上り詰めた彼は、1960年の大統領選でケネディに敗れ、1962年のカリフォルニア州知事選にも敗北した後、一旦政界を引退します。しかし、1968年の大統領選で現職のジョンソンを破り奇跡の復活。1969年からウォーターゲート事件で辞任するまで大統領を務めます。

"Moonshot"

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「アポロ計画、月面に人類を送り込む」

宇宙計画において当初ソ連に遅れをとっていたアメリカが、威信をかけて取り組んだのがアポロ計画です。1960年に発表があって以来、月面着陸を目的として進められます。

アポロ1号は、地上で火災を起こし3人の宇宙飛行士の命が失われる結果になります。しかし逆にこの事故を契機に安全対策が進められ計画が進展、1969年7月20日午後4時17分39秒(日本時間21日午前5時17分39秒)、ついにアポロ11号が月面に降り立つことになります。

計画は、その後も映画になったアポロ13号の危機一髪の事件を経ながら、1972年12月7日に打ち上げられたアポロ17号まで続きました。しかし人類はこれ以来、月面に降り立っていません。ベトナム戦争の影響で、アポロ計画を続行させる余裕がアメリカになくなってきたのです。ロケット・サターンVや宇宙船の予備部品は、その後宇宙ステーションを建造する際に転用されました。

"Woodstock"

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「ウッドストック・フェスティバル開催」

1969年8月15日からの3日間、ニューヨーク州ウッドストックの近郊で開催されたこの祭典に、30~40万の人々が集まりました。もともと、音楽とアートのフェスティバルなのですが、今ではすっかり音楽、とりわけロックの歴史的イベントして認知されていますね。ジミ・ヘンドリックスの演奏するアメリカ国歌など、その後語り継がれるようなパフォーマンスが目白押しだったせいでしょう。しかし、このフェスティバルが伝説と化している最大の理由は、60年代ヒッピー文化の総決算だったという点にあります。これだけの群衆が集まったフリーコンサートでありながら暴動などのトラブルがなかったこと(死者は出たようです。ちなみに出産も。)が、「愛と平和の60年代」の最後の年を象徴していました。

"Watergate"

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「ウォーターゲート事件」

アメリカ民主党全国委員会本部に盗聴器を仕掛けようと侵入した犯人が逮捕された事件。調査によりこの事件にニクソン大統領が関わっていたことが判明、彼はアメリカ大統領として初めての辞任に追い込まれました。

発端は、1972年6月17日、ワシントンのウォーターゲート・ビル内にある民主党全国委員会本部に侵入した5人の男がガードマンにつかまったこと。ここから、ホワイトハウスの指示によって政府高官がスパイ計画を画策していたことが次第に明るみになってきます。

この騒動の中、73年7月16日、ホワイトハウス補佐官のバターフィールドはテレビで爆弾発言を行います。ニクソンがホワイトハウスのすべての会話を録音するよう指示していたこと。それにより、ニクソンがこの事件にどう関与しているかについても証明できるということを言い放ったのです。これを知った特別検察官コックスはただちにテープの提出を要求しますが、ニクソンはこれを拒否。しかもコックスを解任させるにまで至ります。

これに対し国民からは抗議の嵐が巻き起こります。そして74年7月には最高裁がニクソンにテープの提出を義務づけます。結果、提出されたテープからは、ニクソンが事件の調査をやめるよう連邦捜査局に命令していたことや、政府が事件に関与していたことをもみけす工作にニクソン自身も手を貸していたことが判明します。

しかも調査の過程で、他の様々な違法行為が発覚。ホワイトハウス内情報収集担当グループが違法な手段をつかってマスコミ情報もれをふせぐ工作をしていたこと。ある人物の名誉を失墜させるため、精神分析医の診療所に侵入してカルテを入手しようとしたこと。ニクソン政権が選挙資金として違法な献金を大量に集め、政治スパイの資金に使っていた(ウォーターゲート・ビルの侵入者たちには50万ドル以上が支払われた)ことなど。

結果、ニクソンは弾劾訴追で大統領を辞職させられる直前の1974年8月9日、大統領を辞任します。この事件により、アメリカ国民の大統領への信頼は大きく揺らいだといわれています。その一方で、アメリカがれっきとした法治国家であり、大統領でも法はこえられないことを明らかにしたともいえます(以上、ほとんどマイクロソフト「エンカルタ」の要約です)。

"Punk Rock"

God Save the Queen
「パンクロック・ムーブメント」

60年代後半のヴェルヴェット・アンダーグラウンド、イギー・ポップ、ニューヨーク・ドールズなどが体現していたアンダーグラウンドなムーブメントをもとに、1975年に、女流詩人のパティ・スミスが初期のロックのアルバム「ホーセズ」で初期のロックの持つ率直なエネルギーを表現。当時既に難解で高度な音楽理論を必要としたプログレッシブ・ロックやハードロックに対するアンチテーゼとして、このスタイルはトーキング・ヘッズやテレヴィジョン、ブロンディに受け継がれていきます(しかしブロンディがパンクだったというのは後年のヒット曲を聴く限りではなんとも無理があるように思えるのですが、初期は違ったのでしょうか。)。ニューヨーク・パンクです。

しかしパンクが商業的に成功するのは、ロンドンにおいてでした。ロンドンでブティックを経営していたマルコム・マクラレンは、かつて自分がマネジメントをしていたニューヨーク・ドールズの影響を受け、自分の店にたむろしていた素人の若者を集めバンドを結成させます。「セックス・ピストルズ」の誕生です。

ご存じの通りピストルズは、スキャンダラスな歌詞(「女王は人間じゃない」「おまえなんかに未来はない」)や言動などで注目を集め、当時不況下にあったイギリスの若者の圧倒的な支持を得、1977年には大ブームに。しかし1978年のツアー中に彼らは解散、メンバーのシド・ヴィシャスによる恋人ナンシー・スパンゲン殺人事件(諸説ありますが)とシド自身の麻薬過剰摂取による死でパンク・ブームは一端終焉を迎えます。

しかし、パンクはそのムーブメントの短さに比べ、その精神は今もロック界に多大な影響を与え続けているといえます。

ところで、punkとはもともとどういう意味なのでしょうか。辞書を引いてみると、「1 くだらない人間, 役立たず. 2 青二才, 若造. 3 ちんぴら, 与太者. 4 同性愛の相手の少年.」(研究社「新英和中辞典」第6版)となっています。4を除けばまさに「パンクロック」の語源となったことがうかがえます。

"Begin"

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「イスラエルのベギン首相、エジプトのサダト大統領とキャンプ・デービッドで和平合意」

メナヘム・ベギンは1913年、現ベラルーシ共和国で生まれ、後にポーランドのユダヤ人青年組織ベタルの代表になり、ナチス・ドイツとの戦いのためソ連で組織されたポーランド軍に入りパレスチナへ行きます。そして1948年、イスラエルが建国されると議会に選出され保守勢力の指導者となりました。第一次中東戦争ではパレスチナ人の虐殺を指導、1973年には右派政党リクード(イスラエル2大政党のひとつ)を立ち上げ代表にもなるなど、パレスチナへのタカ派的態度で知られていました。

しかしベギンとエジプト大統領サダトは、1978年アメリカのカーター大統領の仲立ちでキャンプ・デービッドにて中東和平について合意。これはイスラエルとアラブ国家の和平合意としては初のものとなり、同年のノーベル平和賞はこの二人に贈られることになりました。

この和平合意をもとに、イスラエル軍はシナイ半島から順次撤退するなどの成果がありましたが、多くのアラブ指導者やイスラム急進派はこの合意に猛反対。サダト大統領は1981年、軍事パレード閲覧中に暗殺されます。

一方ベギンは、1982年に南レバノンへの侵攻を許可しますが、同年の妻の死去とこのレバノン占領に関する論争から、83年には首相を辞任。1992年の死去まで、ほとんど人前に姿を見せなかったといいます。(2007年9月9日)

"Reagan"

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「アメリカ共和党のレーガン、大統領に選出される」

1911年に靴屋の息子として生まれたレーガンは、よく知られているように、もともとは映画俳優でした。1937年にハリウッド入りし、約50本の映画に出演します。

転機が訪れるのは戦後。俳優活動の場が減るのにしたがい政治に関心を深めていったレーガンは、当初民主党に入党しました。しかし映画俳優協会会長を務めていた間、協会内部で共産主義者が影響力を持つことを懸念し、1962年には共和党員になりました。1967年にはカリフォルニア州知事に当選、1975年まで務めます。

1980年には、民主党のカーター大統領のイラン・アメリカ大使館人質事件などの失策を攻撃して大統領に初当選。その後、「強いアメリカ」(国防の強化、対ソ強硬路線、リビア爆撃など)・経済政策(社会福祉をカットし大幅減税)でリーダーシップを発揮、アイゼンハワー以来久々の2期8年の長期政権を維持します。

大統領に就任して約2ヶ月後に狙撃されたり、任期中にイラン・コントラ事件などのスキャンダルに見舞われるなど、その8年も決して平坦な道のりではありませんでしたが、レーガンの堂々とした体躯とユーモアに富んだ演説の才能は、国民が彼を支持するのに大きな役割を果たしたと言われています。

後年、アルツハイマー病を患い闘病。2004年に93歳で死去。アメリカ大統領で2番目の長寿だったそうです。(2008年5月5日)

"Palestine"

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「パレスチナ紛争」

パレスチナは、地中海の東海岸に位置する場所で、現在はイスラエルとその占領地域のことを指します。

この地域には、もともとカナン人が住んでいましたが、紀元前1125年頃からユダヤ人がやってきていったん王国を築き栄えますが、その後はペルシャ支配→ローマ領→アラブのカリフ支配→オスマン帝国の支配といろんな国家に支配され、 1917年頃にはイギリス領となります(この間の中東の覇権の移り変わりについては、それをわかりやすい動画で示してくれるImperial History of the Middle Eastをご覧いただければと思います。)。

これだけいろんな国に支配され、特に西暦135年にローマに追放され世界をさまよう身になっても、ユダヤ人はアイデンティティを保ち続けました。よりどころとなったのは、宗教(ユダヤ教)、文学的遺産(聖書、タルムード)、そしてしっかりと組織化された共同体です。この結果、19世紀にヨーロッパで起こったナショナリズムの動きと呼応して、ユダヤ人がパレスチナに安住の地を求めるシオニズム運動が発展していきます。これがパレスチナ紛争の原因その1になっているような気が個人的にはします。

原因その2は、パレスチナにある都市エルサレムが、ユダヤ、アラブ(イスラム教)両方の聖地になっているという点です(もちろんキリスト教の聖地でもあります)。ユダヤ人にとっては、かつてのイスラエル王国の首都とされた地であり、ユダヤ人が神に約束された地の象徴。イスラム教徒にとっては、最初のキブラ(礼拝の際に向く方向)に定められた地であり、預言者ムハンマドが夜の旅に出た地となっています。異なる宗教にとって同時に聖地であるということで、この地はゆずれないという思いが双方にあるわけです。

パレスチナ紛争の原因その3は、イギリスの外交政策です。イギリスは、オスマン帝国からパレスチナを手に入れるにあたり、アラブ人(メッカの太守)には「パレスチナをアラブにあげるからオスマンに対する独立運動をがんばってください」と伝えます(フサイン・マクマホン協定。この政策の一環としてイギリスから派遣されたのが「アラビアのロレンス」です。)。そう言っておきながら、その後イギリスはユダヤ人コミュニティのリーダーに「パレスチナにユダヤ人国家をつくったら承認します(ユダヤ人の支持がほしい)」と表明(バルフォア宣言)。その上、フランス、ロシアとは「パレスチナ近辺は私たちで分割しましょう」との協定を結んでいます(サイクス・ピコ協定)。イギリスによるこの3つの矛盾する外交は、厳密には対象の地域が微妙に違うため矛盾はしていないという話もありますが、結果的にユダヤとアラブの大きな不信を招いたので、やはり問題だと思います。

紛争の原因その4は、ナチスによるユダヤ人絶滅計画です。戦後、この政策に同情した世界が、ユダヤ人のパレスチナ「帰還」に同情を示し、かつ実際にユダヤ人はパレスチナに移民するようになりました。パレスチナにはすでに長い間アラブ人が住んでいるにもかかわらず。

原因その5は、収拾がつかなくなったイギリスが、パレスチナの委任統治権を放棄し、1947年に国連に問題の解決をまかせた結果、国連が投票でユダヤ人に有利な国連決議を可決したことです。この背景には、アメリカ国内のユダヤ人の支持を得たかったトルーマン大統領による圧力があったとの話もあります(どのような圧力だったのかは調べ切れませんでした)。なお、現在もアメリカの国民感情としては、「好きな国」の5位がイスラエル、下から3番目がパレスチナ自治政府となっています(出典:社世論調査、2008年3月)。

これら5つの原因がそろえば、パレスチナにおけるユダヤ人とアラブ人は紛争を起こして当たり前という気がします。実際、この地域の領有・支配を巡っては、4次にわたる中東戦争と度重なるテロが起こっているのはご存じのとおりです。1993年にはパレスチナ解放機構のアラファト議長とイスラエルのラビン首相が和平条約に調印するなどの進展はあったものの、その後ラビン首相がユダヤ人和平反対派に暗殺されるなど混迷が深まり、引き続き双方に多くの犠牲者が出続けています。(2008年8月18日)

"terror on the airline"

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「航空機テロ」

今では、「航空機テロ」というと911テロを思い浮かべる方が多いと思いますが、Billy Joelがこの歌を発表したのは1989年ですから、911テロより12年も前のこととなります。ですから、この歌で歌われている"terror on the airline"は、1960年代~70年代に激化したハイジャックによるテロのことを指していると思われます。

そもそも、テロが激化したのは、1960年代の中東戦争がきっかけだと言われています。具体的には、前項「パレスチナ紛争」にも書かれているPLOが、航空機テロ、すなわちハイジャックなどのテロリズムを展開したことです。

例:

これが1970年代になると、日本・旧西ドイツなどの先進国の過激な左翼運動に影響を与えるようになります。

例:

  • 日本 1977年のダッカ日航機ハイジャック事件。福田赳夫首相は「人命は地球より重い」と述べて、身代金600万ドルの支払いと赤軍派メンバーなどの引き渡しに応じます。
  • 西ドイツ 1977年のルフトハンザ航空181便ハイジャック事件。日本とは異なり、西ドイツはバーダー=マインホフ・グループとして知られる赤軍派に一切譲歩せず、特殊部隊を投入して解決、乗客は全員無事。これ以降、国際社会の航空機テロへの対処法が変わったと言われています。日本も、この事件をきっかけに、警視庁と大阪府警に対ハイジャック特殊部隊を創設することになりました。

この後は、セキュリティチェックの強化や各国の特殊部隊の創設により、いったん下火となる航空機テロですが、911同時多発テロが発生し、一層のセキュリティチェックの強化などが行なわれているのが現状です。(2010年6月13日)

"Ayatollah's in Iran"

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「ホメイニ師帰国とイラン革命」

「アーヤトッラー」は本来イランで「神のしるし」を意味する宗教上の名誉称号ですが、この歌が指しているのは間違いなくホメイニ師のことです。

20世紀後半、イランはモハンマド・レザー・パフラビー国王による親米政権が民主主義を抑圧する政治を行っていました。ホメイニ師はこれを批判し国外追放されますが、政府への抵抗をよびかけるカセットテープを製作するなどしてイラン国民への影響力を行使し続けます。これにより国民の国王への不満は増大し、79年に国王が国外へ逃亡。直後の2月、ホメイニ師はイランに帰国し、王政は打倒されました(イラン・イスラム革命)。

ホメイニ師がその後もアメリカ批判を繰り返したことで、11月にはテヘランのアメリカ大使館襲撃事件が勃発します(民間のアメリカ人53人が人質となりますが81年に解放)。また、12月に議会で承認された新憲法は、ホメイニ師を無期限で最高指導者として制定。この最高指導者が大統領の上に存在する政治体制は、2010年現在も継続しています(最高指導者はホメイニ師の後継者ハメネイ師)。

ホメイニ師の指導によるイランにおける政治・経済のイスラム化は、イスラム原理主義者を勇気づけることになりました。スーダンでは1989年にイスラム勢力と緊密な軍部がクーデタを起こし、イランとの関係を深めることになりました。またアルジェリアでは92年にイスラム原理主義勢力が総選挙で大勝しています(ただし軍部がこれを認めなかったため原理主義勢力は武装闘争路線に移ることとなりました)。さらにイランは、レバノンのシーア派組織ヒズボラ勢力を支援しています。

8年にわたったイラン・イラク戦争も含め、ホメイニ師の指導はイラン、そしてイスラム諸国に大きな影響を与え続けています。(2010年6月27日)

"Russians in Afghanistan"

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「ソ連、アフガニスタンに侵攻」

事の発端は、1979年6月、混乱の続くアフガニスタンにアメリカ寄りの政権が確立されたことでした。これに対しソ連は同年12月27日、軍をアフガニスタンに侵攻させ、親ソ政権を樹立させます。

ソ連は、1978年に締結されていた両国の友好善隣条約を侵攻の国際法的根拠としていましたが、西側はこれに納得するはずもなく厳しく批判、日本を含む多くの国が1980年のモスクワオリンピックをボイコットすることとなりました。

一方で、外国からの支援を受けたイスラム教徒を中心とするゲリラは次第に優勢に転じ、派兵されたソ連軍約11万8000人のうち、戦死者は1万5000人にも上るようになりました。結果、ゴルバチョフ政権は1989年2月に完全撤兵が実行しました。

しかし、この侵攻で300万人以上の難民がパキスタンへ逃れ、また撤兵後も旧反政府ゲリラ各派の間での内戦が厳しくなる(この過程でタリバーンが力を持つようになりました)など、その後のアフガニスタン混迷の大きな遠因として、今もその影響は続いています。(2010年7月3日)

"Wheel of Fortune"

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「TV番組『ホイール・オブ・フォーチュン』始まる」

アメリカの国民的テレビ番組「ホイール・オブ・フォーチュン」が1975年1月から放映されはじめました。それから36年たった2011年6月現在も続いていますし、世界40カ国以上で現地バージョンが放映されているほどの人気です。

これは賞金額が莫大になることがあるクイズ番組。一種の言葉当てゲームで、ものの名前や地名につき、参加者が文字をコールしその文字が問題の「名前」に含まれていれば表示されていくので、「名前」がわかった時点で回答するという内容です。かなりシンプルなゲームのようですが、だからこそ長く人気を保っているのかもしれません。これまでの最高賞金額は約100万ドルだとか。

番組名はタロットカードの「運命の輪」からでしょうね。「運命対自由意志」「幸運の到来」「アクシデントの到来」を意味しているようで、まさに多額の賞金がかかったクイズ番組にふさわしいものです。(2011年6月9日)

"Sally Ride"

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「サリー・ライド、アメリカ初の女性宇宙飛行士に」

サリー・ライドは1951年ロサンゼルスに生まれ、スタンフォード大学に学びます。少女時代はプロテニスプレイヤーを目指すほどのスポーツウーマンで、大学では文学史号と物理学の博士号を取得する才媛でもありました。

そんな彼女の転機は、NASAの宇宙飛行士募集の新聞広告でした。彼女は8000人の中から選ばれ、ついには1983年、スペースシャトル・チャレンジャー号の乗組員となります。これは女性としてはアメリカ初、世界では3番目でした(当時ニュースを知って、第一号であるソ連のテレシコワが1963年に初飛行していることに比べ、女性が活躍している印象のあるアメリカのわりには遅いな、と感じたことを覚えています。)。

1986年のチャレンジャー号爆発事故調査に参画した後は大学教授になっていますが、現在はより若い子ども達への科学啓蒙教育にも熱心ということです。(2011年6月25日)

参考サイト:JAXA(宇宙航空研究開発機構)インタビュー サリー・ライド「子供たちの関心をつなぎとめるために」

"heavy metal, suicide"

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「ヘヴィーメタルミュージックが自殺を誘発したとの訴え」

1984年、アメリカで19歳の青年が拳銃自殺しました。青年の両親は息子がオジー・オズボーンの"Suicide Solution"のサブリミナルメッセージに影響されて自殺したと、オジーとレコード会社を訴えました。

その次の年、同じくアメリカでティーンエイジャー二人が拳銃自殺。彼らの両親は、息子達がジューダス・プリーストの"Stained Class"アルバムに仕込まれたサブリミナルメッセージの影響で自殺したと、バンドとレコード会社を訴えました。

訴えは両方とも退けられました。子どもを失った悲しみはいかばかりかとは思いますが、これらのニュースは表現者にとって理不尽な思いをかき立てられるものだったでしょう。だからこそBillyがピックアップしたのかなとも思います。

そういえば、映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」でも銃乱射事件は犯人の少年たちがマリリン・マンソンに影響されたせいだという、同様の理不尽な意見が紹介されていましたね。そもそも、この映画のタイトルは、「少年たちが犯行前に音楽を聴いていたから(ゲームをしていたから)音楽が悪い(ゲームが悪い)というなら、犯行前に遊んでいたボーリングはなんで叩かないんだ?」という監督の疑問も込められたものだそうです。(2011年7月20日)

参考サイト:


"foreign debts"

ウィキペディア・コモンズ

「アメリカの対外債務拡大」

アメリカでは70年代以降、対外債務(外国に対する借金)が拡大します。その背景には貿易収支の悪化があります。60年代までは黒字基調だったのが、76年以降は赤字基調になったのです。それはなぜでしょうか。

大きな理由は、原油価格の大幅な値上げとドル相場の下落なのだそうです。しかし70年代以前に生まれた日本人には、やはり対日貿易赤字の拡大が印象的でしょう。連日のように日本で報道されていたこのニュースは、アメリカ製造業の没落と日本の同業界の伸張を象徴していました。(2011年7月27日)

参考サイト:国立国会図書館保存「通商産業省(当時)「通商白書」1986年「アメリカの貿易構造の変化とサービス経済化」


"homeless vets"

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「退役軍人のホームレス増加」

退役軍人とホームレス-日本人にはぴんと来ない組み合わせかもしれませんが、アメリカではホームレスと言えばその多くが退役軍人、というのが常識なのだそうです。個人的に英語のレッスンを受けているアメリカ人もそう言っていました。では、どのくらいの人がそうなってしまっているのでしょうか。

この問題を扱うNPO"The National Coalition for Homeless Veterans"によると、成人のホームレスの3分の1が退役軍人で約11万人おり、そのうち47%がベトナム戦争経験者だそうです。Billyがこの歌を発表したのは1989年ですから、今よりもさらにベトナムの影は色濃く残っていたのかもしれません。また、アメリカ退役軍人省にはホームレス問題のためのページがあり、コールセンターやチャットでの相談も受け付けているようです。この問題の根深さを感じさせます。

また、76%がアルコール・ドラッグ・精神疾患のいずれかを抱えているとのこと。というよりこれらが原因でホームレスになるケースが多いようです。戦争が、「加害側」にもこれだけの深い傷跡を残すことを否応なく示すやるせないデータです。(2011年8月14日)

"AIDS"

HIV/AIDS Pandemic: Origins, Science, and Global Impact
「エイズ患者急増」

免疫機能が低下する病気AIDS(後天性免疫不全症候群)。原因となるHIVウイルスは1908年頃アフリカで誕生したと言われていますが、初めてアメリカで症例報告があったのは1981年。個人的には、その数年後に「原因不明・不治・致死性の恐怖の病」として一般に認知されていったような記憶があります。

そしてこの認知には、「同性愛者と薬物中毒者がなる病気」というイメージもセットでした。特にアメリカでの感染者拡大がよくニュースになっていましたので、日本でも「モラル低下と犯罪の国アメリカの病気」という感覚がしばらくはびこっていたような気がします。実際、アメリカでも大きな社会問題となっていたようで、だからこそBillyもこの病気を歌詞に取り上げたのでしょう。

しかし、この歌が発表された1989年ごろから状況は変化していきます。同性愛者とエイズ患者への偏見をテーマにした映画「フィラデルフィア」が発表されたのが1993年。主演のトム・ハンクスがゴールデングローブ賞並びにアカデミー賞を受賞するなど話題を呼びました。そしてエイズを致死の病でなくした多剤併用療法の有効性が証明されたのが1995年頃と、アメリカでのエイズのイメージはかなり変容してきたと思われます。

一方、この病は現在アフリカで猖獗を極めており、世界のHIV患者の3分の2がサハラ以南のアフリカにいます。国によっては国民全体の平均寿命の低下に影響するほどの割合になっているだけでなく、貧困の原因(稼ぎ手がいなくなり家庭・社会が貧困に陥る・労働力が減少する・労働技術の伝承ができなくなる)になっていると言われるほどです。また日本では、HIV感染者数自体は少ないものの(HIV感染者数とAIDS患者数は2008年末でそれぞれ、10552人・4899人)、先進国で唯一増加していることが問題となっています。世界では、2009年末時点で3330万人のHIVウイルス患者・感染者(うち女性52%)が生存しているとのことです。(2011年8月28日)

参考サイト:


"crack"

Crack (Drugs: the Straight Facts)
「クラック大流行」

クラックはコカインを加工した麻薬です。製造時に鳴る音にちなんでこの名前がつけられたとか。麻薬には他にもいろいろ種類がありますが、なぜBillyはこれを歌詞にとりあげたのでしょうか。それは、アメリカ社会への影響が他の麻薬以上に大きかったからです。具体的には、アメリカの、特に黒人が多く住むエリアの治安を悪化させ、生活水準を下げたのです。

1980年代前半、当時麻薬の主流だった粉末コカインが供給過剰になり価格は下がる一方になりました。そこで売り手は、コカインを「より製造が容易で、低価格でも利益の出る」クラックにすることを思いつきます。しかもこの麻薬は、気分を高揚させる時間が短く短期間で依存状態に陥るという、売り手にとってはとてもありがたい性質をも有しています。結果、クラックは大流行。1987年の時点で、全米でこの新しい麻薬に侵されていない州は50州中わずか4州になるまでに広がりました。

特に影響が大きかったのは、低所得者の多い黒人居住地域でした。スティーヴン・D・レヴィット,スティーヴン・J・ダブナー「ヤバい経済学」によると、クラック旋風が吹き荒れていたころ、何十年も下がってきていた黒人の乳児死亡率が急に上がっています。それに未熟児や捨て子の比率、黒人の子供と白人の子供の成績格差も広がり、投獄される黒人の数は3倍になったそうです。「クラックが与えた害はとても大きく,クラック使用者とその家族だけでなく,アメリカ黒人全体で平均してみても,この集団に戦後見られた進歩が急に止まってしまったばかりか,10年分も逆戻りしている。」と著者は述べています。(2011年9月20日)

"Bernie Goetz"

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ニューヨークの地下鉄で白人が黒人強盗へ発砲」

1984年12月22日、ニューヨークの地下鉄で18~19歳の黒人4人が白人のバーニー・ゲッツに「5ドルよこせ」と強盗しようとしたところ、ゲッツは拳銃発砲で応え、強盗たちに重傷を負わせました。陪審で、彼は禁固6ヶ月と罰金5000ドル等を言い渡されました。

この事件はアメリカで大きな話題になりました。なぜなら、当時アメリカの大都市では犯罪発生率の高さ、それに対しての「自衛」の是非などが強い関心を集めていたからです。ゲッツには支持者(「彼は自衛を実行したヒーローだ」等)も批判者(「人種が逆ならゲッツはもっと重い刑になっている」等)両方が多数だったそうです。

Billyのこの歌だけでなく、Lou ReedやBeastie Boysの歌や複数のラップミュージックにも彼の名が登場するという事実も、この事件の話題性の高さを物語っていると思います。なお、この事件が影響したというわけではないでしょうが、ニューヨークの犯罪発生率は1990年をピークに劇的に減少し、2006年の時点では全米の10万人超都市210のうち194番目に「犯罪の少ない」街になっているということです(出典:Patrick A.; Matthew R. Durose "The Remarkable Drop in Crime in New York City" 2003
 (2011年9月23日)

"Hypodermics on the shores"

Hospital Waste Management: A Guide for Self Assessment and Review
「ニュージャージーの海岸に大量の注射器が廃棄される」

1987年から88年にかけて、ニュージャージーのジャージー海岸に大量の注射器などの医療廃棄物が廃棄されるようになりました。当地は観光地として知られたところでしたが、この事件により大打撃を受けました。

当初は麻薬中毒者による投棄が原因だと考えられていましたが、調査の結果、これらは近隣のニューヨークにあるフレッシュキルズごみ埋め立て地からのものだとわかりました。注射器の形状が麻薬注射用のものとは異なっていたことなどが決め手になりました。しかしなぜ急にそのようなことになってしまったのかはわかっていません(というか、私の英語力ではそれをネットから探し出すことができませんでした。)。

しかしこの事件により、二つの大きな進歩がありました。ひとつはジャージー海岸の掃除です。「ニュージャージー港湾プログラム」は、他の同種の団体とのネットワークなどを活かし、1988年には約110kmの海岸が立ち入り禁止だったのを、翌89年には6.4kmにまで減らしています。もうひとつの進歩は、1988年に議会でより厳しい医療廃棄物管理法案が可決されたことです。これまで以上に医療用具を「ゆりかごから墓場まで」ウォッチする内容でした。事件そのものはひどいものですが、アメリカが自らの危機に対策をすぐに打つところは見事だと感じました。

参考:

(2011年10月16日)

"China's under martial law"

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「第二次天安門事件」

1989年6月4日の第二次天安門事件。当時大学1年生だった私はさすがにこの事件ははっきり覚えています。しかし、恥ずかしいことにその背景についてははっきりとは知らないままなので、ここで整理します。

すごく大雑把に言うと、ゴルバチョフによるペレストロイカ推進 → 影響を受けた胡耀邦総書記が言論の自由化を推進 → しかし保守派の鄧小平などが反発 → 胡耀邦失脚、軟禁状態に → 1989年4月15日に心筋梗塞で死去 → 学生による追悼集会 → 4月21日は10万人規模に → 5月上旬には50万人規模 → 5月19日に戒厳令布告 → 6月4日武力弾圧開始(第二次天安門事件)、という流れということです。これをまとめて改めて思ったのは、中国の現在の統制は、この時の「教訓」を活かしたものなのかもしれないなということと、この時に民主化運動が続いていたら、中国はその後相当変わっただろうなということです。

当時からの疑問として、犠牲者の数はどのくらいだったのだろう、という点があります。政府による徹底した報道統制と事件について語ることをタブー化したことにより、正確な情報がなかなか把握できないのが現状のようです。中国共産党の発表が319人ということですから、実際はこれより相当多いのでしょう。ウィキリークスが2011年8月に公開した米外交公電の1990年3月の内容には、軍兵士が1000人以上の学生を死亡させたことが記されていたそうです。

ウーアルカイシなど、当時ニュースでよく名前を聞いた民主化運動のリーダーたちはその後どうなったのか。多くは香港経由で西側に亡命したようです。ウーアルカイシもフランスに亡命後、台湾に移住したとのこと。なお、2010年にノーベル平和賞を受賞した劉暁波(ウーアルカイシの先生でもあった)は、この民主化運動時に当時研究をしていたコロンビア大学から帰国し学生とともに断食に参加、事件後に逮捕されますが1991年の釈放後も国内にとどまり民主化を訴え続けています。彼が平和賞を受賞した時、中国政府が不快感を示したことはみなさんご存じのとおりです。

私個人がこの事件で思い出すことは、当時大学である授業を一緒にとっていた中国人留学生が、事件直後に「中国の公安から電話がかかってきました。内容はわかりますよね。留学生全員にかけているみたいです。」と語っていたことです。中国政府のこの姿勢は、今どれほど変わっているのでしょうか。(2011年10月23日)

"Rock and roller cola wars"

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「ロックンローラーのコーラ戦争」

ビリーがこの歌をリリースした1989年前後は、コカコーラとペプシがCMに有名ミュージシャンを競い合って出演させはじめていた時期でした。現在、YouTubeで社名と年号をもとにざっと検索してCM映像がヒットしたのは以下のとおりです。

コカコーラ: 1986年ホイットニー・ヒューストン、1987年マンハッタン・トランスファー

ペプシ:1986年ライオネル・リッチー、1987年グロリア・エステファン、1988年マイケル・ジャクソン、1989年マドンナ、ロバート・パーマー

ビリーはこの歌詞の後"I can't take it anymore!"と叫んでおり、この「戦争」への嫌悪感をあらわにしていますが、ビリーがこう叫んだ直後も、コカコーラが1990年にエルトン・ジョン&ポーラ・アブドゥル、ペプシが1990年にMCハマーを起用していました。このMCハマーのは当時私も見たことがありますが、ハマーのライブ中彼が間違ってコカコーラを飲むととたんに古くさい音楽を歌うようになったがペプシを飲み直すといつものダンサブルなステージに戻る、というようなものでした。

この後もこの「戦争」が続いているのはご存じのとおりです。ビリーが"It will still burn on, and on, and on, and on..."と歌ったように、これに限らずこの歌で歌われたトピックのほとんどは現代にも影響をおよぼし、「燃え続けて」います。(2011年11月27日)


参考資料

このページは、多くの方々やサイトから情報をいただいて作成しています。情報を下さった方々・サイトについては、それぞれの項目でその都度記載させていただいております。改めて感謝申し上げます。

その他、項目全般にわたって調査に使用した資料は次のとおりです。

  • ビリー・ジョエル/ハートにファイア 日本盤CDシングル 歌詞解説
  • マイクロソフト「エンカルタ'97エンサイクロペディア」「エンカルタ総合大百科2002」
  • ウィキペディア(ただし、このメモを書き始めた1999年当時はまだ存在していませんでした)

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