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庭を歩いてメモをとる

おもしろいことや気になることのメモをとっています。

平野啓一郎「空白を満たしなさい」(2012年)

久しぶりにどっぷり浸かって徹夜した小説です。

平野さんは、私にとって引き込まれ度が作品によってかなり違う小説家です。「決壊」は2008年に読んだ小説では衝撃度No.1で、今も、提起されている問題の深さ・現代性(リアルさ)・心理描写の見事さにおいて他に並ぶ作品はそうそうないと思っています。でも、短編集「あなたが、いなかった、あなた」はそれほどでもなかったし(収録作品「フェカンにて」はなぜかすごく印象に残りましたが)、「ドーン」に至っては、緻密な未来予想は楽しめたもののそれ以外は特に感じることはなかった。しかし、この「空白を満たしなさい」は、「決壊」以来久々に大きく心を震わされました。


物語

現代の日本。徹生は、妻と3歳の子どもと暮らすサラリーマン。彼は会議室で目覚めて帰宅すると、自分が3年前に死んでおり、今日突然生き返ったのだということがわかる。彼だけではない。日本で、世界で、続々と死んだ人が生き返る現象が起こっていたのだ。

徹生の死因は勤務先のビルから飛び降りたこと、つまり自殺だった。しかし徹生自身には身に覚えがない。妻は、自殺者の妻ということで、つらい3年間を送っていた。この謎を解くため、徹生は行動を開始する。


感想

こんなSFのような導入部から、ミステリーのような緊迫感をもって物語は進みますし、実際深夜に6時間、ページを繰る手を止められなかったのですが、この作品の真価はそこにあるわけではありません。

まず、相変わらずあらゆる描写がリアル。こんな設定なのに嘘くさく感じないし他人事に感じない。自殺者の家族、親族、同僚達の苦しみや反応。子どものしぐさや成長。ある人物のどす黒さと悲しみ。現代日本の30代の疲弊−晩婚化の影響で結婚・出産・子育て、住まい選び、そして仕事で中核的存在になっていく・・・これらがいっぺんに押し寄せてくることからくる疲弊。このあたりを体感しっぱなしでした。主人公と平野さんと私の年齢がそれほど違わないのも、そのあたりをビビッドに感じる理由のひとつなのでしょうけど、何はともあれ、このリアルさが物語世界を愉しませてくれる大きな力となっています。

そして徹生が謎を解きラストへ向かっていく箇所では、ページから光が放たれているようでした。何が輝いていたのか・・・自分でもよくわかりませんが、それは「人生の価値」なのかもしれませんし、ラストシーンの舞台の陽の光なのかもしれません。でも読んでいてページから光を感じるなんて、個人的にはなかなかない経験です。

「決壊」には私の平穏だったはずの休日をぶち壊されましたが(それほどの破壊力があったという褒め言葉のつもりです)、この「空白を満たしなさい」からはそんな極上の読書体験と、以下にメモするある「ツール」を得ることができました。


分人主義

その「ツール」とは、平野さんが以前から提唱している「分人主義」という考え方のことです。これを受け入れられたことも、この作品をより印象深くしています。分人主義とは、ものすごくシンプルに言うと「人間は会う人や環境によって変化するが、それらは仮面ではなくどれも本当の自分である。一人の人間は複数に分けられる存在である」という考え方です。

#これだけだと「それがどうしたの?」とお思いになると思います(私も最初そうでした)。分人主義について関心のある方のために平野さんのインタビューをご紹介します:自殺願望はポジティブな意思から生まれる――平野啓一郎インタビュー前編(2013年)

この分人主義という考え方について書かれた平野さんの新書「私とは何か――「個人」から「分人」へ」(2012年)は以前一応読んだのですが、その時は頭で理解できても納得できなかったという感じでした。それがこの物語ではすっと心の中に入ってきたのです。これが物語の力というものなのでしょうね。まあ、作中でこの考え方を説明しているところは小説の中でちょっと浮いている感じはありますが、話しているのが元医師の人物ということで大きな違和感はありません。むしろ、説明箇所を作中でできるだけ違和感をなくそうとする職人芸と言えるかもしれません。

私自身は現時点では大きな悩みも特になく(とてもありがたいことに)、自殺を考えることもありませんが、それでもこの分人主義という考え方はなかなかに有用だと感じています。人生で無用な荷物を背負う機会が減るのではないでしょうか。Twitterなどでは、この考えで救われたと書いている方もいらっしゃいます。もちろん、分人主義を知っても何も響かない方もいらっしゃるとは思いますが、人によっては強力なサバイバルツールになるのでは、と私は考えています。



徹夜するほど引き込まれる上に、サバイバルツールにもなり得る、まさに「おもしろくてためになる」小説でした。

死は傲慢に、人生を染めます。私たちは、自分の人生を彩るための様々なインク壺を持っています。丹念にいろんな色を重ねていきます。たまたま、最後に倒してしまったインク壺の色が、全部をいっしょに染めてしまう。そんなことは、間違ってます。