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宗教に対してドーキンスが最も主張したいこととは−リチャード・ドーキンス「神は妄想である」(その2)

神は妄想である―宗教との決別

その1からの続きです)

この本でドーキンス博士が最も主張したいこと

この本でドーキンス博士が最も主張したいこと−それは「選択できない者への強制」への糾弾だとよしてるは読み取りました。具体的には、子どもに宗教を強制することです。

子ども達が聖書が文字通り正しいのか、星の運行が人生を支配しているのかどうかは、自分が大人になってから判断するだろう。

500年前、太陽神に捧げられたインカの幼い少女がいました。そのミイラが発掘されテレビのドキュメンタリーが制作されたのですが、そこでもドーキンス博士は同じ怒りを感じています。

インカの司祭たちを、無知だといって非難することはできないし、彼らを愚かで増長した者たちだと断じるのは厳しすぎる、という考え方もあるかもしれない。しかし、彼らが自分たちの信念を、太陽を崇拝するかしないかの判断をするには幼すぎる子供に押しつけたことについては、彼らを非難できる。・・・それに加えて、現代のドキュメンタリー製作者が、そして現代の私たちがこの幼い少女の死に美−「私たちの集合的な文化を豊かにする何か」−を見ることも、非難されておかしくない・・・


「自分で決断を下す」

そうなると、当然ここで次の疑問が出てきます。宗教だけでなく、ドーキンスが絶対的なものとしている「科学」も子どもに強制することはできないのでは?

これに対するドーキンス博士の回答はこうです。「何について」考えるかよりも「どのように」考えるかが重要なのだと。

何について考えるべきかを決めるのは彼らの特権であって、親には圧倒的な力でそれを押しつける権利などないということだ。

科学を強制するのではなく、事実を知り論理的に考え正当な批判を受け入れ最後は自分で決断を下すというような「考え方」を子どもに教えることが重要で、科学の中身を教えることが重要なのではない、ということのようです。

よしてるとしては、教育には強制の要素が多く、特に幼少期には考え方を教えるよりは「何について考えるべきか」を教えることも非常に重要(それこそ、メモ「その1」でも書いた「崖っぷち近くまでは行かないように」など)だと思っています。そして、「どのように」考えるか、また相対的なものの見方や自分で決断を下すことの重要性は、成長するにつれ高くなってくるのではないかと。

また、実は「何について考えるべきかを自分で決める」というのは、往々にしてかなりハードな作業でもあるな、とも感じます。決断には心身のエネルギーがかなり必要です。企業経営者や政治家など、たくさんの人々の生活・人生・時には生命までも左右するようなリーダーが誰にでも務まるわけではないこともよく理解できます。「人に決めてもらった方が楽だし、そのほうがいい」という人は実は多数派なのではないでしょうか。よしてる自身もそう考えることがよくあります。参考:エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」他についてのメモ

なので、個人的な考えとしては、ドーキンス博士のこの主張には、大いに賛同するものの、全面的に受け入れるのは難しいです(と、自分で決断しています。)。


多様性とのかかわり

もうひとつ「自分で決断を下す」こととの関連で思いつく疑問としては、多様性との関わりがあります。世界にはいろんな価値観がある。個々人にもそれぞれの価値観がある。それらを尊重することは非常に重要である。ならば、文化と同様、それぞれの宗教も尊重すべきではないか、という考え方です。

これについては、格好のケーススタディが本書で紹介されています。アーミッシュ(アメリカで現代文明を拒否した生活を営む宗教集団)を巡る裁判です。


現代のアーミッシュ(Wikipedia Commonsより)

1972年、ウィスコンシン州の一部のアーミッシュの親が子供を高等学校から退学させたことについて 連邦最高裁は親の言い分を認めました。つまり裁判所は、宗教的理由で子どもの教育を中断させることに同意したのです。

ドーキンス博士はこれについてこう書いています。

「多様性」という祭壇に、宗教的伝統の多様性を保存するという名目で誰かを、とくに子供を生け贄に捧げることについては、なにかしら愕然とするほどに尊大であると同時に、非人間的なものがある。

よしてるも、「多様性」と「個々の文化の尊重」のバランスは、どこが適切なのか判断するのが非常に難しいと思っています。ニューギニアに宣教師が入って人肉食をやめさせたということについて「人肉食文化も認めるべき」とは思わない一方、このアーミッシュの裁判の結果はなんだかなあと感じます。また、西洋諸国から一方的に「クジラやイルカを食べるのは残酷」と言われてもそれもなんだかなあと思ってしまうのです(西洋でそれがまるで日本人にとって「犬を食べる」かそれ以上の感覚で受け止められる、ということを知ってはいても)。この問題は、これから世の中が多様性をさらに受け入れていくにつれ(よしてる自身はそれをとても望ましいことだと考えています)、根深いものになっていく気がします。


芸術・儀式とのかかわり

とはいえ、ドーキンス博士は、宗教と芸術・儀式とのかかわりについては一転して「寛容」です。彼の根っこにある思いである「無批判に何かを受け入れさせる」問題とは無縁だからでしょう。博士は聖書の「コヘレトの言葉」や「雅歌」(前から思ってるんですけど、この官能的な愛の詩、聖書の中では異色ですよね。なんで聖書に収録されたんでしょう?)の文学的価値の高さを絶賛していますし、もっとも好きな音楽の一つは「マタイ受難曲」なのだそうです。また、文学の理解において聖書など聖典のことばを知っていることが必須であることも大いに認めています。結婚式や葬式における宗教儀式への参加にも問題を感じていません。

私もまったく同感です。宗教批判の延長で「主よ、人の望みの喜びよ(音楽が流れます)」やイスタンブールのブルーモスク、中宮寺・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像法隆寺を否定されたら、人類の宝を奪うなと言いたくなります。


よしてるの感想

この本から得た一番の学びは、宗教がどうこうというより、まさに「どう考えるか」を学べた、というところでしょうか。ドーキンス博士の科学者らしい事実(現時点で多くの学者が認めていること)と論理に基づく推論と、批判一辺倒ではない受け入れ方、そしてページの端々にちりばめられたユーモア(これはぜひ本書で味わっていただきたい点です。翻訳の垂水雄二さんがいいお仕事をされています。)。こんなふうに物事を考えられればいいな、と思いながらページをめくっていました。


いろいろメモ

その他、興味深かかった箇所をメモします。

同じ物語でも名前を変えただけで・・・

イスラエルの心理学者ジョージ・タマリンはイスラエルの8〜14歳の生徒1000人以上に対し、旧約聖書のヨシュア記におけるエリコの戦いについての記述「(イスラエルの人々は)男も女も、若者も老人も・・・(エリコの)町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。・・・彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた。」についての感想を調査したところ、全面的な是認66%、全面的な不同意26%という結果だった。

一方で、168人の別のイスラエルの子供に、「ヨシュア(イスラエルのリーダー)」を「リン将軍」に、「イスラエル」を「3000年前の中国の王国」に変更したこと以外はまったく同じ記述を読ませたところ、7%が是認、75%が不同意という結果となった。

「カーゴカルト」とは

デビッド・アッテンボロー「楽園の探求」によると、ミクロネシアなどで「カーゴカルト」と言われる宗教が存在する。

土地の人々は、西洋の宣教師や兵士などが素晴らしい品々(機械など)をもってくるが、それらを自分たちでは決して作らないことを見て不思議に思う。自分たちでそれを作らないばかりか、故障すると送り返し、直ったものがまた送られてくるのだ。それに彼ら(西洋人)は役に立ちそうな仕事は何一つしない。机に座って書類をめくることは宗教的儀式としか思えなかった。以上から、土地の人々は積荷(カーゴ。素晴らしい品々)はこれらの儀式によってやってくると解釈し、宣教師や兵士が去った後も、彼らが再び戻ることを祈り続ける。これがカーゴカルトである。ある西洋人は土地の人々に「19年も待ってもカーゴが来ないのなら、もう来ないと思った方がいいのでは」と言ったところ「あなたがたはキリストを2000年待っているがまだ来ないのではないか」と言われたとのこと。ニューヘブリディーズ諸島(バヌアツ共和国)にはいまだに現存する。

英国における多神教と一神教

英国で1960年に制定されたチャリティ法(チャリティ活動の経済的支援の方法などを規制する法律)では、ごく最近まで多神教に非課税待遇を与えないことで差別する一報で、一神教の普及を目的とするチャリティは簡単に許し、厳格な審査を省略していた。

宗教界のノーベル賞の賞金はノーベル賞より高額

テンプルトン賞:「宗教界のノーベル賞」といわれ、宗教の対話について功績のあった人に授与される。賞金はノーベル賞よりも高額。ケンブリッジで行われたテンプルトン賞主催の科学と宗教に関する会議については、講演者だけでなく聴衆にまで諸経費に加えて15,000ドルが支払われた(ジャーナリストのジョン・ホーガンによる)。ドーキンス博士曰く「科学を金で買おうとしている」

用語の整理:

  • 有神論者(theist):神は宇宙を創造し、祈りに応え、罪を赦し、罰すると信じる
  • 理神論者(deist):神は最初に宇宙を支配する法則を設定することに限定していると信じる。ドーキンス博士曰く「薄めた有神論」
  • 汎神論者(pantheist):「自然」あるいは宇宙、あるいは宇宙の仕組みを支配する法則性の同義語として使う。アインシュタイン「神はサイコロを振らない」=「すべての事柄の核心に偶然性が横たわっているわけではない」もこの考えと思われる。ドーキンス博士曰く「潤色された無神論」

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