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息子が語る、手塚治虫と家庭・新人チェック・映画観-手塚眞「天才の息子」

(2021年11月15日更新)

手塚治虫の長男、手塚眞氏による手塚治虫語り。

まず、表紙がいいですよね。どっちがお父さんでどっちが子どもかわからない。

天才にそんなに近かった方からの証言を興味深く読みました。有名なエピソードも含まれていますが、近親者の証言という貴重さも重視しあえてメモしました。


手塚治虫と家庭

とにかくやさしいお父さんだったそうです。

よく覚えている、父が怒った姿は、ただ一度だけ。父の会社のアニメが放送されていたとき、ぼくと妹がそれぞれ別の番組を観たくてチャンネル争いをしていたのです。母がそれを見かねて「お父さんの番組を観なさい」と叱ったところ、父が声を張り上げて「子どもの観たいものを見せなさい!」と怒鳴ったのです。

でももちろん仕事では厳しい面もあります。

NHKで放送された晩年のドキュメンタリーにも登場する「本人以外入室禁止」の仕事場にうっかり入ってしまった編集者に関する逸話には驚きました。実は「ブラック・ジャック」が終わったのは、連載が8年も続いてマンネリを本人も気にしていた頃、慣れない編集者が治虫の仕事場(家族やアシスタントも入室禁止)に立ち入ってしまったところ怒ってその場で連載を辞めると宣言したためなんだそうです。単なる口実という見方もできますが、あの名作が突然終わったのにはそんな背景があったのですね。

あと記憶力や認知能力が尋常じゃなかったようです。外出先から電話でアシスタントに指示を出すときも、原稿のコピーを持たず、「まず一コマ目の人物の右後ろの背景ですが、『×××』の何号目の何ページと『△△△』の何号の何ページ目に描いた背景を合わせた感じでお願いします」とやったり、本一冊を立ったまま数分で読んだりなど、そんな話がどんどん出てきます(このあたりのエピソードは「ブラック・ジャック創作秘話」にも出てきますね。)。

その一方で、かなりの機械音痴だったとか。その作品から「科学・医学に精通」イメージのある手塚治虫ですが、電車の切符の自動販売機が使えず千円札を握ったまま途方に暮れていたり、ビデオで留守録ができなかったり。映像作家でもあるのに、8ミリカメラを逆に持って自分の鼻を映していたこともあったそうです。

そんな手塚治虫を育てたお父さん(著者の眞氏にとってはおじいさん)は当時でも高級品だったライカのカメラを持ち歩き趣味の写真撮影に没頭していた道楽人で、お母さん(おばあさん)の部屋にはこんなものも。

ビートルズなどに混じっておかしな牛のジャケットがありました。それは紛れもなくピンク・フロイド。(略)ザ・フーなんかを一緒に聴いたのでした。

手塚治虫は1928年生まれですから、その親となれば明治人のはず。それでビートルズやザ・フーとは畏れ入ります。やはり一般的な家庭とはかなり違った環境だったのでしょう。


才能への理解

新人作家のチェックを怠らず、ライバルには時には激しい嫉妬で応じたことも手塚治虫の有名な一面ですが、才能を見抜き理解するという点は、息子から見ても見事だったようです。

若い漫画家がデビューするといつも気にしていました。ぼくは岡崎京子さんと友達で、彼女の漫画を家で読んでいたら父が覗き込んでくる。手にとって真剣な顔で見て、この人は色使いが良いね、と褒めました。後に岡崎さんにそのことを話したら、彼女は何しろ手塚治虫の大ファンで漫画を始めたぐらいですから、もう嬉しくて泣いていました。

まったく別ジャンルっぽいしりあがり寿氏の最初の単行本についても覗き込まれた眞氏は、当時のしりあがり氏の画風が「劇画のパロディのような描き込んだような絵だった」ので「とても汚い絵ですよ」と想わず言ってしまったらしいのですが、

「父は本をパラパラと最後までめくり、うん、この人はうまいね、と言ったんです。驚きましたね。(略)実力を瞬時に見取ったのでしょう。」

その後しりあがり寿氏は手塚治虫文化賞を受賞することになります。

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映画

個人的には手塚治虫が映画をどう観ていたか、この点が一番興味深かった。

(要約)「2001年宇宙の旅」について、キューブリック監督が「鉄腕アトム」のアメリカでの放送を観て、手塚治虫に美術デザイナーとして参加してくれないかとの手紙を寄こした。しかしその条件が1年間ロンドンに滞在するというものだったので泣く泣く断念するしかなかった。手塚治虫は「食わせなきゃならない人々が260名もいるので」と断りの手紙を書くと「あなたにそんな家族がいるとは知らなかった」という返事が来た。

これは有名なエピソードですが、眉唾っぽい雰囲気もありどうなんだろうと思っていたのですが、手塚治虫本人の本だけでなく息子の本にも書かれているとなれば、やはり事実なんでしょうね。上に書いたことと関連しますが、やはり天才は才能のある人を見抜くのですね。

  • 古典もホラーやB級もかなり好きだったが、ゴダールやベルイマン「沈黙」「叫びとささやき」あたりはあまり観なかった。
  • 「頭でっかちの映画は好きではない」と公言していた。
  • 意見の相違でよく覚えているのは「ブルー・ベルベット」。手塚治虫はまったくつまらないといい、眞氏はけっこうおもしろいと思った。治虫がどこが面白いのかと突っ込んできたので眞氏がデニス・ホッパーがカメラに寄っていくとパッとその姿が消えて立ち去る車の音だけが聞こえるのが新鮮、というと治虫は「安っぽい」。
  • タルコフスキーの「惑星ソラリス」は好きだった。

うまく言葉にできませんが、手塚治虫の映画観はすごくよくわかります。手塚作品は徹底して「頭でっかち」から距離を置いていますから。私はゴダールも手塚治虫も大好きですが。

あと、↓って有名な話なんですか?私は全然知らなくて驚きました。

  • 黒澤明監督は手塚治虫と親しかった。
  • 手塚全集も揃えていた。
  • 眞氏が黒澤監督に会ったとき「父の作品で映画化したいものはありますか」と訊いたところ、ずばり「ない」。そして代わりに「手塚治虫のような才能が漫画界に行ってしまったから、日本の映画はダメになったんだ」
  • 黒澤監督の「赤き死の仮面」という、エドガー・アラン・ポーを原作とする企画があったが、監督は美術監督を手塚治虫に依頼していた。しかしこの企画は実現せず、代わりに「影武者」を作ることになった。脚本ができると、真っ先に手塚治虫の元に送ってきて、感想を聞きたいと言った。

ライオン・キング問題

映画と手塚治虫といえば、この「事件」も連想されますが、これは治虫没後のこと。なので、眞氏の考えが述べられているのですが、さすがだと感じました。

  • ディズニーを訴えなかった理由は二つ。
    • 「映画や美術、音楽の歴史の中である作家の作品を別の作家が模倣するのはごく常識的なことだからです。」
    • 「もう一つは、「ライオン・キング」は「ジャングル大帝」に似ていない、と最終的に想ったからです。テレビで放送されていた「ジャングル大帝」に似た部分はあるが、手塚治虫の原作に似たような部分はほとんどない。」
  • では当時のアニメ監督山本暎一はどう感じているかというと「いいよ、気にしないよ」と。
  • 残念なのは、日本の漫画家代表として里中満智子さんが手紙で「真似をしたのですか?」と問いただしたところ、ディズニーからはていねいな返事が届き「真似をしたつもりではないが、手塚治虫さんの業績についてはよく知っているし敬意を表している」といったことが書いてあったが、公の場ではそのように言ってほしかった。
  • もうひとつ残念なのは「ライオン・キング」は「ジャングル大帝」以上の意欲的な物語ではないこと。「ジャングル大帝」の素晴らしい独創は白いライオンが人間と心を通わせることだと思うが、「ライオン・キング」は動物だけの物語で、シンプルな自然回帰。だから本質的にこれは違う物語で、テーマも違うと思った。

虫プロダクションと手塚プロダクションは別の会社

これは手塚治虫の熱心なファンなら常識なのでしょうが、知らなかったのでメモ。

  • 最初に治虫が作ったのは虫プロで、そこには漫画を作る部署も設けていたのだが、アニメの仕事が増えるに従って一作家の会社という性質が薄れ(「あしたのジョー」「ムーミン」も虫プロで作っていた)、現場との軋轢ができたため個人の漫画の部署を切り離したのが手塚プロ。
  • 現在手塚治虫の作品を実質扱っているのは手塚プロ。
  • 虫プロは一旦倒産してから別の人が引き継いだので、今では完全に別経営の会社。


全体的に、手塚眞氏の素直な(素直すぎるくらいの)父親への尊敬の念・作品への愛情と、それを語り継ぐ使命のようなものを十分受け止めた上で、読みやすく重くせず書かれた記録でした。長女のるみ子氏(ツイッターはこちら)も、ほんとそのあたり素直ですよね。ありがたいことです。


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