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庭を歩いてメモをとる

おもしろいことや気になることのメモをとっています。

高橋裕子・高橋達史「ヴィクトリア朝万華鏡」

美術 本・まんが

ヴィクトリア時代(概ね19世紀)のイギリス絵画を元に当時の社会をひもとく本。現代では話題になることがほとんどない画家の作品も含め幅広く多様な画を紹介するだけではなく、絵画に隠された寓意や作者の意図を明らかにしつつ、現代日本で生活する我々にとっては意外な史実をつまびらかにしてくれる密度の高い一冊でした。

個人的には、ヴィクトリア時代のイギリスって、都市生活のモデルを確立した社会だと思っています。シャーロック・ホームズを読むと、交通(鉄道や今のタクシーに相当する馬車など)、通信(電報)、ホワイトカラーの仕事、国際性(世界中の植民地とのかかわり)など、日本では20世紀後半に一般的になったしくみがすでにある程度完成されていたからです。

とはいえ、やはり今では考えられないような社会風俗もあったわけで、そのあたりを絵画という「資料」を通じて解読するところが本書の醍醐味です。いくつか例を挙げてご紹介します。


女性の地位

筆頭は女性の地位ですね。ただ単に低かっただけではなく、今の言葉で言えば「セーフティネットがなさ過ぎ」なのです。それはこの画が物語っています。

リチャード・レッドグレイヴ「家庭教師」

当時はある程度以上裕福な家庭の女性が働くことは卑しいこととされていたんだそうです。では、そういう女性が裕福でなくなったら?その女性に教育があれば、生き残りの道は家庭教師が相場だったそうです。

この画の家庭教師を見てみましょう。まず、喪服を着ています。手にしている手紙も(この画面ではわかりにくいですが。以下同様)手にしている手紙に黒枠がありますから、おそらく家族、それも大黒柱であったお父さんが亡くなったのでしょう。それで家庭教師になったばかりなのです。右側の明るい生徒との差が彼女の悲劇性をさらに演出しています。そして、ピアノにある楽譜のタイトルは"Home Sweet Home"。在りし日の幸せな実家を思う彼女の想いがこちらに伝わってくるような仕掛けが随所にあるのです。

では、教育のない女性が零落するとどうなるのでしょうか?それはこの画から。

リチャード・レッドグレイヴ「お針子」

お針子か娼婦になることが多かったようです。お針子は長時間労働できつい仕事の代名詞でした。画の彼女の充血した目とうつろな表情がそれを物語っていますし、何より時計は深夜2時半を指しています。そして、窓の手前の植物は枯れかかっており、彼女の生命の行く末を表しているようです。


鉄道

鉄道は、1830年に世界で最初にイギリスで開業されて以来、世の中に大きな変化をもたらしました。しかし利用者の最初の感覚は、今では想像もできないようなものでした。「景色が流れるのが速すぎて旅を楽しめない」という声が多かったのです。その解決策としては読書か睡眠、となり(これは現代と同じですね)、1840年代には発駅で本を借り着駅で本を返す制度が発足したりしていたそうです。睡眠についてはこんな画が描かれています。

A.ソロモン「一等車の出会い」

お父さんが列車でうたた寝をしている間に、青年が娘に声をかけているという場面です。鉄道が始まって間もないのにこういう画が不自然にならないほど「列車の中で寝ること」は一般的になっていたということですね。ちなみにこの画は当時の道徳観念からいうと不謹慎だとされ(この本によるとそれは「偽善的」であったということですが)もう少し穏当な表現のヴァージョンがリリースされています。


あと、この本では、しばらくイギリスでは列車内に持ち込むのは手荷物だけで旅行用の大きなかばんなどは専用の車両に格納された(飛行機と同じですね。そういえばビートルズの映画「ハード・デイズ・ナイト」でも荷物車両が出てきた!)とか、いろんなエピソードに事欠きません。


他にも、ウィリアム・パウエル・フリス「駅」という巨大な絵画が当時大人気でこの作品ひとつだけの展覧会が大盛況だったのに現代の美術史からは忘れられていることや(この画の詳細な解説も楽しいです)、処刑の見物は庶民だけでなく貴紳や淑女にとっても最大の娯楽のひとつで処刑場の周囲の家の持ち主は入場料を科していい席を提供した一方、英国動物虐待防止協会は1824年に設立され、1887年にヴィクトリア女王即位50周年を記念して囚人達に恩赦が下った際にも動物虐待罪に問われたものだけは除外されていたこととか、興味深い逸話が満載です。



こんな感じで、絵画を楽しみながら当時のイギリス社会がどうであったかを丁寧にひもとく本書は見応え・読み応え抜群でした。加えて、画家の間の人間関係についても詳細に解説があり、二人の著者(ご夫婦だそうですが)の知見の広さにも脱帽でした。願わくば全部の画がカラーならよかったのですが、それは贅沢というものかもしれませんね。しかも文章も読みやすくかつ品もよく、本当に高品質な書籍でした。現在絶版なのが惜しまれます。