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庭を歩いてメモをとる

おもしろいことや気になることのメモをとっています。

チャールズ・ローゼン「ピアノ・ノート 演奏家と聴き手のために」

ピアノ・ノート

こういう本を書ける人は世界にもそうはいないのではないでしょうか。経験と人脈が豊富でレパートリーが幅広いピアニストで、かつ文筆の才があること。著者チャールズ・ローゼンはそれを満たしています。著名なピアニスト(日本では知られていませんが)かつプリンストン大学フランス文学博士号を取得し、その後も「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」にコラムを書いたりオックスフォードなどで教鞭をとった才人なのです。

ではどんな内容が書かれているのか。それはクラシック音楽を演奏するピアノにまつわる非常に幅広いものです。ピアノ演奏と身体の関係、ピアノの音(ペダルの使い方や調律も含む)、ピアノという楽器の利点と欠点、音楽学校・コンクールの功罪、コンサート、レコーディングなどが様々なエピソード(著者の人脈ならではのものが多い)とスコアを交えて、しかし軽妙に語られます。


印象深かった部分をメモします。

椅子の高さは演奏スタイルに影響する。座位が低いと、嵐のような超絶オクターブフォルティッシモで弾くのは難しい。グールドはこの奏法が苦手だったので、リスト編曲の「運命」を録音したときは右手と左手を別々に録音した(CBSの録音技師の話による)。しかし彼はこの低い座位ゆえに速いパッセージをさまざまなタッチで弾き分けることができた。ラヴェルも低く座る人だったが、彼の作品には両手で弾くフォルティッシモオクターブ・ユニゾンがいっさいない。

この話自体興味深いのですが、何よりすごいと思ったのは、「ラヴェルの作品には・・・いっさいない。」と言い切れること。全曲を知り尽くしているということですからね。


ピアノはほぼどんな楽器編成でも、どんな形式、スタイルでも、どんな時代の音楽も演奏することができた(20世紀後半になるまでは)。リストはかつて、重要なクラシック作品のなかでピアノ技法にふさわしい編曲ができなかったのはモーツァルト交響曲第40番の冒頭だけだったと述べたことがある。しかし、このようなピアノの能力は、ピアニストに深刻な技術的問題をもたらした。バッハからシュトックハウゼンまで、ピアノは膨大なレパートリーを包含してしまったのである。

私が何か楽器をしたいなと思ったとき、ピアノ以外にはまったく何も思いつきませんでした。それはここにあるようなピアノの自由さにあります。何も古今東西のいろんな曲をピアノで弾こうというのではありませんが、「いろんな音楽を弾けそう」というくらいの軽い気持ちからでした。ただ、それがプロにとっては非常に厳しい、レパートリーの膨大さという現実をもたらしているのには全然気づいていませんでした。


わたしはドビュッシーの「映像」と「版画」の録音のために数週間ドビュッシーばかり練習していた。その録音が終わってすぐ、ベートーヴェンだけを特集した演奏会が予定されていたが、初めのうち指が動きにくくて困った。ドビュッシーはピアノのくっきりした響きをあえて抑制し、鍵盤を打ったときのパーカッシブなインパクトを覆い隠すすばらしい技法を開発したが、これを弾き慣れていると、ベートーヴェンを弾いたときどうも耳慣れず、弾いた気がしない。・・・独特で強烈な個性をもつ作曲家の作品を弾くと、心の状態ばかりでなく、身体的状態にも影響する。

著者はピアノはスポーツに似ているという記述もしています。ただこれはピアノだけに限らないのでは、という気もしています。ピアノほど身体と密接に関わっている楽器はたしかに少なそうですが。


二十世紀のピアニストで、どんな公演にも同じ楽器で弾けるという贅沢を許された最後のピアニストは、おそらくホロヴィッツくらいだろう。

今でも有名ピアニストは自分専用のピアノを世界中連れ回しているのかと思っていました。たしかに以前はそうだったらしいのですが(輸送費はピアノ会社もち)、輸送費の高騰でそれが難しくなったとのこと。


ここから先はピアノ特有の話ではなく、音楽全般に関係するものをピックアップします。


拍手の量は実際の演奏の出来より、演奏している土地の伝統や習慣に左右される。

これは本当にそうだと思います。ロックのライヴDVDを見ても、海外の盛り上がりは凄いなと何度思ったことか。

日本ならではかもしれないという客席の反応を目の当たりにしたことがあります。あるピアニストが「ゴルトベルク変奏曲」を弾くというので聴きに行ったのですが、これがひどいもので、間違いだらけ。この日の演奏で唯一感心したことは、「これだけ間違えても一瞬たりとも演奏を止めなかった」ことだけという。途中で帰ろうと何回も思いましたが結局最後まで聴いてしまいました。その後。客席からは割れんばかりの拍手が巻き起こったのです。ピアニストは当惑した表情を見せてから頭を下げていました。これ、他の地域ならどうなっていたんだろうと思った夜でした。そして何より、これじゃあ他のすばらしい演奏をした人への拍手はどうなるの?(間違いだらけもすばらしい演奏も同じ拍手?)と思ったものです。似たことがこの本にも書かれていました。


レコーディングという身体経験は、ある重要な一点でリサイタルと異なる。コンサートは、始まったとたん、舞台恐怖症から発するアドレナリンが全身の血管を駆けめぐるが、やがて演奏行為に没入するにつれ、少しずつ消えていく。レコーディングはこれとは逆に、はじめは自信満々で臨む。・・・しだいに自信が揺らぎはじめる。そして、いわゆるマイク恐怖症が姿を現す。レコーディングでは、ど忘れやちょっとした弾きまちがえがやたら気になる。こうして、自意識を捨てて音楽に身をまかせることができなくなる。

私には未経験のことですが、すごく想像できます。


ロック音楽のレコードは複製品ではなく、創造物である。この種のポピュラー音楽では、録音機器によってのみ得られる新しいサウンドの実現がつねに理想とされる。・・・ポピュラー音楽では、録音技師にはミュージシャンに匹敵する創意工夫や想像力が要求される。しかしクラシックのレコードは、レコードではない何物か−つまりコンサートや私的な場での生演奏−になろうとする存在である。レコードをつくる過程で必要な計算は、なんであれ隠しておくべきもので、見せびらかすものではない。

これも、クラシックとロックの両方を聴く人ならたいていそう感じているんではないでしょうか。もちろん、一発録りのほうがかっこいいロックや編集しまくったクラシックもあっていいとは思いますが。


フォノグラフ・レコードの歴史は、1932年からのアルトゥール・シュナーベルによるベートーヴェンの32のソナタ全曲の録音で画期的な転換点を迎えた。それまでレコードが重きを置いていたのは演奏者で、そのピアニストがいちばん映える音楽が選ばれた。ところがこの企画で強調されたのは音楽そのものだった。

そして現代は、作品買いから始まってそれから演奏者買いに流れていくケースが多いんじゃないかな、と思っているのですが実際のところはどうなんでしょう。


このように、ピアノを主なテーマにした論述のような手応えがありながら気軽にも読めるエッセイ。私にとっては、そのどちらかだけの本ならともかく、両方を兼ね備えている本はこれが初めてでした。

それから驚いたのは、訳者の朝倉和子さん。肩書きに「ピアニスト、翻訳家」とあります。訳文も自然で読みやすかったですし、頻出する音楽用語も正確に訳出されているのでしょう。訳者もローゼンのようにピアニスト+「別の訓練を要する職」を兼ねておられるということで、まさにぴったりの人選ではないかと思いました。