庭を歩いてメモをとる

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アンドルー・ゴードン「日本の200年」(上)

日本の200年〈上〉―徳川時代から現代まで

この本の概要

歴史を学び、そこから自分なりの考え方を持つことのメリットって何があるんでしょう。

本やニュースを読んだときに理解が深まる。過去の出来事が今後進む道についての参考材料になる。いろいろありますが、私個人が感じる大きなメリットのひとつは、外国の人から日本について聞かれたとき、事実と思われることと自分の意見をきちんと伝えることによって、相互理解が深められることです。

では今までに日本の歴史に関してどんなことを訊かれたか。「太平洋戦争についてどう思ってるの?」「なぜ真珠湾攻撃は奇襲だったの?」「どうしてこんなに発展したの?」「韓国と仲が悪いといわれるのはなぜ?」そう、すべて近現代のできごとです。それ以前のことを聞かれたのは、「どうして都を奈良から京都に移したの?」くらいです。

でも私自身は日本の近現代についてあまり知識がありません。なので、江戸時代の終盤から現代までをできるだけ客観的に綴った本ってないかなあと思っていて見つけたのがこの本です。

扱っている時代がまさにぴったり。序文には著者からのメッセージとして「私たちのだれもが、それぞれの国の歴史について共通理解に到達することに関心をもち、そうした共通理解について考え、それに向けて努力する義務を共有している、という想定にたって書かれている」とあります。そう、私はまさにそのために歴史を知りたいんだ。

しかも著者は外国人。より客観的な目で日本の歴史を俯瞰してくれるのでは。こういう本を読んでみたかった、と思い読み始めましたが、はたして期待は裏切られませんでした。

まだ上巻しか読んでいませんが、よかった点はいくつもあります。まず広範囲な対象を簡潔に記述している点。教科書で見覚えのある事件だけでなく、特にその当時の労働者・一般市民にも光をあてているところが特徴です。しかしあまり微細なところにまで立ち入らず、歴史の流れを実感でき読み進めやすい記述になっていて、さくさく読めます。

そして客観性。例えば圧政/発展促進のどちらかだけが声高に語られがちな植民地政策について、そのどちらもしっかり記述してあります(後者の記載は少ないですが)。とにかく出来事についての感情的な表現がほとんどないので、自分自身で出来事の評価をしやすい記述になっています。

そんなわけでかなり面白いこの本、下巻も早く読み進めたいのですが、取り急ぎ、読んで興味深かったところ、つまり自分自身の疑問や外国の人に聞かれそうな点についてメモしておきます。以下、長いです。


江戸時代、庶民は豊かだったのか貧しかったのか

江戸時代の庶民って、都市ではけっこう娯楽がたくさんあっていい暮らしをしていた反面、農民はカムイ伝みたいな悲惨な暮らしをしている、私はそんな勝手なイメージを持っていたのですが、実際はどうだったのでしょうか。

飢饉と間引きがあったこと、都市や大きな町で人口が減少したこと、社会的な抗議行動がふえたことなどを示す動かぬ証拠の存在と、もう一方で、社会が活力に富み、農村地帯で商取引や工業が興隆していたことを示す、それに劣らず確固とした証拠の存在との折りあいは、どのようにつければよいのだろうか。

たがいに矛盾する証拠間の調整をはかるのに必要な第一の要因は、階級間と階級内で、また地域間で、資源の分配が不均等だったという認識である。社会階級によって、また地域によって置かれていた状況にばらつきがあったことを説明する第二の要因は、アジア規模、さらには地球規模の貿易のネットワークヘの徳川期の経済の組みこまれ方が、比較的限られていた点てある。

都市が衰退する一方で、比較的小さい町は繁栄した。繁栄した地方の町には、原料の産地に近く水利に恵まれている、拡大しつつあった農村の市場に近い、都市の市場にも十分に近い、といったいくつかの利点があった。これらの地方の暇々は、商人と生産者を結ぶ密接な人間関係のネットワークによって支えられていた。そうした人的繋がりは、体系立った商法がないなかで安定した経済関孫を維持するためには重要だった。

繁栄した地方の町々にとって、農村の働き手が農作業と他の稼ぎ仕事をやりくりする才覚を発揮したことも幸いした。徳川幕府や藩の役人たちのさらに威しい監視下にあった都市の商人たちは、税制や同業の株仲間の規制に縛られていたが、地方の町々にはそのような締めつけはなかった。また、農村地方のなかでも、繁栄ぶりには地域によって追加あった。具体的には、本州中部から北九州にかけての地域では、農村の生産と商取引がもっとも目覚ましい隆盛を示したが、本州の北の地域は遅れをとった。

やはり、階級や地域間の格差はしっかりあったようですね。意外だったのは、都市は衰退していく一方、小規模な町は栄えていたことです。これは明治期以降の「都市/農村格差」とは違った状態で、今からは想像がしにくいですね。

日本人の国民性?

外国の人は、日本を、時間を守る教育熱心で勤勉な社会だと評することがあります。また、第2次世界大戦中の日本の兵士については、その自己犠牲的な戦い方が我々現代日本人の中でも一般的なイメージとして共有されているように思います。これらは、日本人がもともと持っている国民性なんでしょうか。

時刻表どおりに動く列車が、時間厳守の習慣を広めた・・・。しかし、これらの変化は急激に起きたわけではない。鉄道の運行が「いい加減、おざなり」で当てにならないという不満は、二十世紀のはじめになっても一般的だった。とはいえ、鉄道の利用者だちからそのような不満があったということ自体が、人々の態度が以前とは変かった、ということを示しているといえる。鉄道の出現は、日本の歴史ではじめて、時間を三〇分単位で考えるのではなく分刻みで数えることが重要となったことを意味した。これにともなって、時計の利用が加速度的に普及した。計時に正確を期すことが重要だという認識が、国民の間に徐々に広まっていった。

学校にかよう義務と卒業のチャンスを、だれもが喜んで受け入れたわけではなかった。小学校を運営する経費は、国税である財産税に一〇パーセントの地方税を加算徴収することによって賄われるものとされた。一八七〇年代には、怒った納税者たちが、かつて徴兵に反発したのと同様に、暴動というかたちで義務教育に反発した。暴徒は、すくなくとも二〇〇〇の学校を、多くの場合は火を放って、破壊した。この数は、学校の総数の十分の一近くに相当した。たんに子弟を学校にかよわせない、という消極的な抵抗は、打ち壊しよりもけるかに広範な広がりをみせた。学制が施行されてから最初の一〇年間における学齢期の男女児童の就学率は、二五から五〇パーセントのあいだだった。
 しかし、やがて徴兵の場合とかなじように、学校にかようことは、天皇の臣民が果たすべき義務として広く受け入れられるようになった。十九世紀末の時点で、小学校の就学率は九〇バーセント以上に達した。一九〇五年には、学齢期の男児の九九パーセント、女児の九三パーセントが、法の定めるとおりに就学していた。

徴兵制度の評判はよくなかった。・・・一八七三−七四年には、怒った群集が各地で徴兵センターを襲撃し破壊するという暴動が一六件も発生し、逮捕され処罰を受けた者は、一〇万人近くにのぼった。
 このような抵抗から明らかなように、それから教十年後に日本の兵士たちが示した徹底した規律と熱狂的な忠誠心は、けっして日本人固有の「国民性」を形成する、時代を超越した伝統的な構成要素などではなかったのである。・・・一八八〇年代半ばの時点までに、日本の軍隊は、国内での治安維持の任務を果たすだけにとどまらず、海外で日本の意思を押しつけるという任務に踏み出すだけのじゅうぶんな力を、すでにつけるまでになった。兵役というものは、大半の新兵だちとその家族たちに、日本男児の愛国的な義務と見なされるようになった。

日本人の「国民性」と言われている(言われていた)もののいくつかは、明治時代に政府から「与えられ、教化された」ものだったのですね。ただ、これだけ短期間にこれらの「国民性」が身に付いていることを考えると、日本人に「国民性」というものがあるとすれば、それは「染まりやすい/柔軟である」ということなのかもしれません。これに関連して、こんな動きがありました。

一八八○年代から九〇年代になって、義務教育にたいする反対運動が下火になり、就学率が高まるにつれて、政府は教育内容の変更をおこなった。庶民が、新聞を読んだり、政府を批判するさまざまな請願書や申立書に署名したり、といったかたちで教育の成果を生かすようになったことが明らかになった。このような事態に対処するために文部省は、国家主義的、道徳主義的なカリキュラムを重視する方針を打ち出した。一八七〇年代の公教育の特徴だったもっとりベラルな実学的精神から、このような方向への転換を主導したのは、旧薩摩藩士で一八八六年から九九年まで初代の文部大臣をつとめた森有礼だった。・・・政府は、忠孝、従順、友愛などの儒款理念の重視を打ち出したほか、忠君愛国について教える徳育重視のカリキュラムを採用するに当たって、ドイツ人顧問たちの協力も仰いだ。一八九〇年十月三十日に天皇の名によって発布された教育勅語は、まさに、このような保守的な教育改革が行き前いた最高到達点を示すものだった。教育勅語は、社会と国に尽くすことを学ぶことこそが教育の目標である、という政府の高官たちやかれらを支える顧問たちの信条を反映していた。

で、結局、この政府の「教化」も成功していくわけですよね。やはり日本人の国民性は「染まりやすい/柔軟である」ってことなのかな。

明治維新はなぜ成功した(日本の国力が増大した)のか

これは以前から大きな疑問でした。アジアの他の国(タイを除く)が軒並み列強の植民地になったのに、日本は逆に植民地を作る側に回れた。なぜ?ひとつには、そのタイミングが大きかったとは思うのですが、それだけではないはず。この本では、次のような理由が挙げられていました。

明治期日本の資本主義がなぜ、西欧以外ではあきらかに前例のない目覚ましい発展を遂げることができたのか・・・、徳川期から引き継いだ経済面と人口面の遺産が、ひとつの重要な要国だった・・・。明治期のさまざまな改革が実施されるはるか以前から、近代工業に応用可能な広範な経営や製造の技能・才能や、商業金融と沿岸輸送の精巧で複雑なネットワークが存在していた。さらに、人□の増加が緩やかだったことも、農業部門の収入を新分野に振り向けることを可能にした。
 このような基盤に立って事業を展開するに当たって、日本の製追突者が比較的廉価な労働力の存在に依拠することができた、ということも非常に重要な要因だった。十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、日本の産業では着実に機械化が進行した。しかしながら、労働生産性(平均的な労働者一人当たりが生産する財貨あるいはサービスの価値)は、西欧の先進諸国における労働生産性に大きく遅れをとっていた。このように生産性が相対的に低い労働者をもちいて、日本経済が国際的に競争するためには、労働者の賃金を相対的に低く抑える以外には方法はなかったはずである。そして、事実は、そのとおりとなった。先進諸国と比較して生産性の低い労働者を、諸外国と比較してこれまたわずかな貨金で働かせたことが、この時期、日本の製造業の競争力を支えるうえで決定的に重要な役割を果たした。
 政府が革新的な役割を拒ったことも、重要な要因だった。国家は経済のインフラストラクチャーを整備したが、そのことが、一八七〇―八〇年代に揺籃期にあった財閥が発展する基礎となった。それ以降も、国家は、資本集約的で技術的にもより高度なさまざまな産業の発展を促進するために−まさに、可能にするために−先頭に立って尽力した。

やはり「女工哀史」の世界が明治期の日本の発展を助けていたのですね。なおこの本では、こういった労働者たちの労働環境などについても比較的多くのページを割いています。
また、政府による直営工場(一定期間後民間に安く払い下げられた)の功績も大きかったようです。

(政府による)直営事業は、経済発展を支える上で国家が果たす役割の可能性と重要性についての確信を、政府の内外に醸成した。国家は、審判や調整者として超然とした役割を担うのではなく、経済を発展させるためにみずから陣頭指揮をとるべきだとする考え方は、この時期に根づいた。この考え方は、それ以来二十世紀をつうじて影響力を保ちつづけた。徳川時代に薩摩藩と長州藩で藩の独占事業を運営した経験が、新政府の経済政策に刺激をあたえた可能性も考えられる。しかし、政府が経済発展をみずから主導する役割を担うという考え方は、日本の伝統的な経済思想を継承したものというよりもむしろ、明治の指導者層が熟慮のうえで新たに選択したものだった。かれらは、世界というものを、たがいに競合する国民経済という単位に細分化されている、と見る世界観を育みつつあった。かれらは、日本を後発国と認識し、なんとしても先進国に追いつき、半植民地的な従属状態から抜け出したい、と願った。この目的を達成するために、アダム・スミスの説くイギリス流のレッセフェール(自由放任主義)の論理にではなく、ドイツ流の国家主導による発展という考え方、とりわけフリードリッヒ・リストの経済思想に指針を求めたのである。他のアジア諸国の政治エリートたちも、その後かれらのあとにしたがうことになるが、国家主導型開発政策の是非をめぐる論争は今日もなおつづいている。

薩摩・長州の経験が活かされているという視点はなかったので、なるほどと思いました。
では結局、この一連の改革を推進した政府の原動力はどこにあったのでしょうか。

明治期に起きた大変化は、旧体制の世襲的なエリートであった士族階級のメンバーがもたらしたものだったという理由から、一種の「上からの革命」と見なすことができる。だが、一八六八年までは、変革を担った指導者の多くは、士族階級のなかでも中居から下層に位置し、不満と不安、そして野心を抱いていた者たちだった。大衆にくらべれば大きな特権を享受していたとはいえ、それらの中層・下層の武士を上からの革命を挙行した貴族的な革命家と規定してこと足れりとしてしまったのでは、誤解を招きやすい。なぜならば、このような規定から思い浮かぶのは、恵まれた環境で育ったのにやがてその特権を放棄してしまった男たち、というイメージだからである。そうではなく、かれらの社会的な地位が高くもなければ低くもなかったこと、給与生活者としての身分が不安定だったこと、そしてかれらが、自分たちには国を統治するカ量があるのに野心を実現できずに不満を感じていたこと、これらの要因を総合的に考えてはじめて、明治維新を担った造反者たちの革命的エネルギーと、かれらが打ち出した広縫囲におよぶ改革政策の説明がつくだろう。明治維新は、不満を抱いた下層エリートによる革命だったのである。

下層エリートの不満感が世の中を変えていく。これって、現代の経済界などでもあてはまるような気がします。まったくの底辺でもなく、てっぺんにいる既得権益ありありの層でもなく、そこそこの教育は受けつつ、現状に不満や異議を持っている人たちが世の中を変えていくのかな、と。

女性の地位

外国の人と話していると、「日本では女性の地位は今も相当低いのでは」と思っているふしを感じることがままあります。逆にこの本でも、明治初期に西洋を訪れた日本人が、歓迎のダンスパーティーで女性が男性と対等に踊っているだけで驚き怒っている様子なども紹介されています。明治期、女性の地位を巡る政策にはどのようなものがあったのでしょうか。

女性の政治活動の後退をもたらした責任の多くは、政府にあった。政府は皇位継承権を男性の皇族だけに限定した。一八九九年の憲法発布の直前に、政府は、女性が政治団体に加入したり、政治集会で付言したり、あるいはそうした集会に出席したり、さらには国会の傍聴席で議事を傍聴することさえも禁止する、一連の法律を制定した。このような措置にたいして、・・・女性の指導的な教育者や社会改革者だちから、囂々たる非難の嵐が沸きあがった。・・・多くの政治家やジャーナリストも、おなじように政府を非難した。政府はやむなく、国会傍聴禁止今だけについては織回し、女性の川合傍聴を認めるにいたった。しかし、自由民権運動内の大半の男性は、女性の政治的権利を拡大することに消極的であり、その意味でかれらの立場は、かつての運動仲間だった女性だちよりも、政府内の男性たちの立場に近かった。その結果、残りの、もっと本質的に重要な禁止今は、撤回されることなく残ってしまった。

天皇の究極的な権威を高め強化する努力と平行して、政府は、ジェンダー秩序が混乱するのではないかという懸念に対処するために、そして、すべての国民を男女の刈なく忠誠心の摩い臣民に仕立てあげたいという政府白身の狙いを推進するために、女性の新しい理想像として「良妻賢母」という概念を打ち出した。このスローガンを最初に提起したのは、明六社のメンバーの一人、中村正直だった。
 いうまでもないが、この概念は、子供を産み育てることこそが、女性の天職であるとか、女性の役割は家庭を中心とすべきだ、というように規定する制限的・制約的な意味を帯びていた。女性は、政治からも、遺産相続からも、民法上の独立した個人としてのすべての法的権利からも締め出されていた。
 しかし、良妻と賢母というふたつの役割をこなすことが女性にとって基本的な任務であるという発想自体は、かならずしも完全に反動的とか制限的というわけではなかった。ある意味では、この発想は、新しい時代に合わせて女性の役割を変えようという革新的な努力の表われでもあった。徳川時代の日本では、女性、とりわけ武士階級の女性は、比較的他人からものごとを教わりたがらず、正規の教育をあまり必要としない存在と見なされていた。女性が社会的に重要な役割を担うこともなかった。明治の新しい環境のなかで賢い女性として生きるためには、学校教育が必要となった。新しい時代に対応してきちんと子育てをするためには、母親にも読み書きが不可欠となった。家庭の外の世界について、何がしかの知識をもつことが必要だった。息子たちが将来軍隊に入って国のために役立つようになるためには、家庭は、未来の兵士を育成する章公的な役割を果たす必要があった。明治政府の首脳たちが世紀の変わり目の前後に熱心に唱道しはしめた「良妻賢母」という考えは、女性が教育を受けることが必要だとする点て斬新だった。また、女性が家庭でこなす家事労働と工場でこなす賃労働について、いずれも国のために尽くすものと評価した点でも、斬新だった。

良妻賢母というスローガンですら新しく、進歩と評価できるほど、かつての女性の地位は低かったのですね。なぜもともと女性の権利がこれほどまでに制限されていた(「ジェンダー秩序」を維持する強い働きが日本社会にあった)のか、この本には記載はありませんが、気になってきました。

植民地政策

明治日本を植民地獲得に駆り立てたのはなんだったのでしょうか。だいたいの想像はつきますが・・・

国境の外で経済的な権利を獲得した・・・過程で日本は、他の民族の政治的な独立を侵食し、次いで否定した。日本を帝国主義国となるように駆り立てた主役、そして主要な要囚として、いくつかの点が指摘できる。第一は、中国を国際関係の中心に据える中華モデルと、西欧を中心に据える西欧モデルの両方を退ける、国学ないし水戸学に根ざす土着の知的伝統の存在である。・・・明治期日本の新指導者たちも、アジアで日本の地位を確立するにあたって、そしてまた国内秩序を支える屋台骨として天皇を祀りあげるにあたって、こうした態度を身につけた。好戦的・排外主義的な新聞論調や、一般民衆や、日本を盟主とする汎アジア統合を目指す冒険家や策謀家たちを衛き動かしたのも、このような考え方だった。
 第二に、明治の支配者たちは、国が進む道としては、帝国となるか帝国への従属か、のいずれかしかなく、中間の道はありえない、とする地政学的な論理を受け入れた。非西欧世界が西欧列強の植民地領土へと分割されつつあるのを目にした支配者たちは、日本が生きる道は、帝国主義列強に依って独立を確保する以外にはない、と判断した。・・・
 第三に、日本の有力者たちも、海外、とくに朝鮮半島で、大きな経済的な権益をもつにいたった。朝鮮牛島との貿易は、一八八○年代から急増した。金融界の大物たちも、朝鮮に膨大な権益をもつようになった。・・・朝鮮に事業を展開していた主要な日本人実業家たちは、日本国内の政治でも大きな影響力をもっていた。これらの実業家たちは、日露戦争後に初代の朝鮮統監となった伊藤博文ととりわけ密接に結びついていた。・・・
 すなわち、帝国建設への動きは、軍事力、地政学的な競争、貿易と投資の拡大、さらには日本の優越性を説く土着思想といった、相互に開運する複数の要因を支え論理が絡みあうことによって、推進されたのである。そしてまた、日本を優越視する独断的な世界観は、当時西欧で非常に根強かった人種差別的な考え方と接するなかで、よりいっそう強められたのである。

おおむね想像していたとおりですが、私自身の頭にあったのは主に第二の理由でした。第一・第三の理由はなんとなくそうかなあ、と思っていた程度。でもこの本の他のページの記述と併せて読むと説得力を感じます。また、興味深いのが、西欧の人種差別的な考え方が日本の帝国主義を結果的に後押ししていた、という指摘。差別される側でもあり、差別する側でもあるというのは、なかなか特殊なケースだったのでは、と思います。

今日まで(朝鮮における日本による)「文化政治」は、容赦ない権威主義的支配の本質を覆い隠す見せかけの改革にすぎない、としてしばしば簡単に片づけられてきた。斎藤(総督)の就任後、日本は、わずか一年のあいだに警察署と交番の教を四倍にふやすということを、迅速かつ劇的にやってのけた。警察は、朝鮮全土にスパイと密告者の膨大なネットワークを張りめぐらした。経済開発の名の下に、植民地当局は灌漑設備を改善した。たしかに米の生産はふえたが、増産分のほとんどは日本に輸出された。朝鮮国内の人ロ一人あたりの米消費量は、実際には滅少した。
 しかしながら、斎藤総督が手がけた改革には、見せかけとして簡単に片づけてしまえない側面が多少ふくまれていた。斎藤は、朝鮮人のための公立学校の教を徐々にふやした。植民地行政を担う統計府の職員として、従来よりも多くの朝奸人を起用した。そして、朝鮮人職員と日本人職員の賃金格差を狭めた。朝洋人にたいする書籍、雑誌、新聞の発行にかんする認可も、従来以上に拡大された。従来よりもはるかに広範な朝鮮入団体・組織の活動が認められた。その結果、何千もの教育や宗教団体、青年の団体、農民や労働者の組織が、朝鮮の人々によって新たに設立された。少数の朝鮮人の資本家には、新しい経済活動のチャンスも聞かれた。
 たしかに、厳しい検閲と監視の体制は維持された。ほんの少しでも日本の支配に異を唱える者は、投獄され拷問された。にもかかわらず、民族主義的な政治活動は、巧妙な隠れ蓑をまとって公然と、あるいは秘密裏に、つづいていた。日本国内とおなじように(とはいっても、もっと厳しい制約下だったが)、映画、ラジオ、文学などの、新たな多様性とエネルギーをそなえた近代的な文化生活が、一九二〇年代をつうじ、そして一九三〇年代初頭にいたるまで栄えた。

こういう政策があったことをきちんと記述している点に好感が持てます。ちなみにこの政策は長くは続かないのですが・・・

元老・重臣の存在

学校で日本史をきちんと学んだ人の間では常識なのかもしれませんが、戦前において元老・重臣という非公式な存在が政治に大きな影響力を持っていたことを恥ずかしながら初めて知りました・・・制限選挙とか貴族院の存在とか以前に、結局大事なことはこの人たちが決めているってことは、デモクラシーとはほど遠い政治システムだったのですね。

一八九〇年代から策二次世界大戦が終わるまでの時期に政治構造を構成した、ひとつの非常に重要なインフォーマルな構成要素は、元老と呼ばれた一群の男性たちだった。貴族院や枢密院と同様に、(そして、メンバーとしても両者と重複していた)元老たちは、政党内閣の指導者たちに、かならず非政党人のエリートたちの思いに洽った行動をとらせるべく、陰になり日向になって尽力した。一八九〇年代以降、法律にもとづくのではなく慣行として定着した元老たちが拒う最重要の責任は、だれを後継首相に任命すべきかを天皇に奏薦すること(そして実質的には後継首相を選任すること)だった。
一九一八年の時点までに、当初七人だった明治期の元老のうち残るのは、山県有朋と根方正義の二人だけになっていた。二人は、新たに二人のメンバーをこのインフォーマルな集団に加えた。一人は、公家の出身で首相をつとめたことのある西園寺公望であり、もう一人は、大久保利通の次男で、人閣経験や外交官としての経験も豊富で、宮廷との関係も密接な牧野伸顕たった。最後の元老(西園寺公望)が、老齢(一九三〇半に八一歳だった)と軍部の影響力の増大を理由に政治活動から身を引いたのは、一九二〇年代はじめのことだった。それ以後、「重臣」と呼ばれる集団が、元老に取って代わった。重臣のメンバーには、すべての首相経験者がふくまれることが慣行となった。

現代日本ではどうなんだろう、とふと思い返すと、例えば総理大臣が密室で決まっているケースは時々ありますよね・・・首相公選制がベストだとは思いませんが、この「元老・重臣体制」に近い要素は今の政治システムにも存在するのかな、とふと思ったりしました。

下巻も楽しみです。


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