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庭を歩いてメモをとる

おもしろいことや気になることのメモをとっています。

エドワード・W・サイード「オリエンタリズム」

社会と課題 本・まんが

オリエンタリズム

私たちが「オリエント」という言葉を聞いて思い浮かべるのはどんなイメージでしょうか。私の場合は、それは中央アジアあたりの砂漠の都市とラクダを連れたキャラバンだったり、タイあたりの民族衣装を着た女性の優雅な踊りだったりします。みなさんもこの言葉にはそれぞれ何かしらのイメージをお持ちなのでは、と思います。

この本では、著者の膨大な知識を通じ、西洋が近代から現代に至るまでどのようにオリエント(この本では主にアラブ世界を対象としています)をオリエントたらしめてきたかを論じています。この本のタイトル「オリエンタリズム」は、サイードによれば「西洋が持っているオリエントへの見方・考え方」であり、それが基本的に支配者のまなざしであることを意味しています。まあそんなことはほとんどの人がなんとなくでも実感できると思います。世界史を学んでも、日々のニュースを見ても、西洋社会が中近東やアジアに対して上から目線で接しているのは伝わってきますから。ただ、この本がたいしたものだと思えるのは、個人的には以下の点によります。

まず、論証の引き合いに出されているデータが非常に幅広く、膨大であること。この人はいったい何冊の本をいつの間に読んでいるのかと驚くほどです。例えば、イギリスのアーサー・ジェイムズ・バルフォア(パレスチナ問題の原因のひとつと言われるバルフォア宣言で有名)がアラブの「駄目さ加減」を語る場面があると思えば、キッシンジャーも同じく、

早期にニュートン学説の先例を受け損なった文化・・・新興諸国の多くにとって経験的現実とは、西洋にとってのそれから著しくかけ離れた意味をもっている。なぜなら新興諸国は、ある意味で、そのような現実を発見する過程をまったく通過しなかったからである。

と、「東洋人が能力的に正確さを欠いている」と論じていることを挙げ、現代でも「オリエンタリズム」は存在していることを示します。

また、このような社会科学的な論を進めるにあたって、これまた膨大な文学作品からの引用が多いことも特徴です。サイードに言わせれば、文学は政治の影響をどうしても受けるものであるから、こういった社会科学的な研究を行う場合にも文学に現れている影響は把握しておく必要があるとのこと。たしかにそうかもしれませんが、そうなると研究者はいったいどんだけ幅広い知識と研究が必要なのか、そしてそれを実践しているサイードって何者?と思ったら、この人、実は専門は英文学なんですね。納得。ちなみに、文学からの引用のひとつとして、本書にはコンラッド「闇の奥」(映画「地獄の黙示録」の元ネタ)が登場しています。

この地上の征服とはなんだ?たいていの場合、それは単に皮膚の色の異なった人間、僕等よりも多少低い鼻をしただけの人間から、むりに勝利を奪いとることなんだ。よく見れば汚いことに決っている。だが、それを償ってあまりあるものは、ただ観念だけだ。征服の背後にあるもうひとつの観念。感傷的な見栄、いいや、そんなもんじゃない。一つの観念なんだ。己れを滅して、観念を信じこむことなんだ、−われわれがそれを仰ぎ、その前に平伏し、進んで犠牲を捧げる、そうしたある観念なんだ。

サイードの出自も興味深かったです。サイードは1935年にエルサレムで生まれたパレスチナ人で、キリスト教徒で、アメリカの大学に勤務していた英文学者なのです。この出自・環境がオリエンタリズム批判の鋭さに磨きをかけているのは間違いないと思います。研究者の生まれた時代や若いころの環境・経験がその後の研究にいかに影響を与えるかを同じく膨大な文献調査により示した小熊英二「<民主>と<愛国>」を思い出しました。

ただ、少し不満もあります。膨大で緻密な論証を行っている割には、結論が見えてきません。問題提起は鋭く興味深いのですが、だからこうすべき、という論が見当たらないのです。そこは残念でした。結局、私自身が、この本の「結論」のように読め、示唆に富んでいると感じたところは、第1章の次のような文章でした。

文化とはすべて、生のままの現実に矯正を加え、これを捉えどころのない対象から一定の知識へと変化させるものである。これは我々が忘れてはならぬ事実である。問題は、こうした変換が生じること自体にあるのではない。これまで扱ったことのない未知の物体の攻撃を受けたとき、人間精神がそれに抵抗するのは至極当然のことである。だからこそ、文化は常に異文化に対して完全な変形を加え、それをあるがままの姿としてではなく、受け手にとってあるべき姿に変えてから受けとろうとしてきたのである。・・・オリエンタリストは、オリエントをあるものから別の何ものかへと変換し続けることをその仕事と心得ている人物である。彼らはその仕事を、自分のため、自分の属する文化のため、そして時には東洋人のためと信じて行っている。

あと、この本の読み方について。353ページ二段組の量の(私にとっては)難しめの文章を読み切るのもひとつの経験かとは思いますが(それにしても序章はかったるくて読むのやめようかなと思わせるほどでしたが)、この本の概要を知るには、杉田英明氏による巻末の「『オリエンタリズム』と私たち」が最適かと思います。本書の概要と課題を非常に的確にまとめてありました。ご参考まで。