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庭を歩いてメモをとる

おもしろいことや気になることのメモをとっています。

山本譲司「累犯障害者」その2

本・まんが 社会と課題

累犯障害者 (新潮文庫)

前回に引き続き、今度はろうあ者をとりまく世界について。

まず非常に驚いたのは、手話には2種類あって、ろうあ者が日常で使っているのはその一方だけだということです。ろうあ者の用いる手話は、日本語とは別の言語で、健常者が学習する手話と異なり、手以外の動作が極めて重要な意味をもっているとのことです。

そして、ろうあ者のほとんどは、私たちが日本語で物事を考えるように、手話で考え、手話で夢を見るそうです。ここで著者は推測します。言語世界の有り様が違えば、精神世界も異なってくるのではないだろうか、と*1。実際、ろうあ者が起こした不倫殺人事件において、「(被害者は)どうして不倫を承諾したと思うか」という問いに対し、被告人は「嬉しいから」と答え、「どうして山中に死体を遺棄しようと考えたのか」という問いには「車が妻のだから」と答えていたそうです。手話通訳の誤りも多いらしいのでなんとも言えないのですが、ろうあ者には、抽象的な話はなかなか伝わりにくいとのこと。著者自身も、ろうあ者へのインタビューでそれを実感しています。


ではろうあ者への教育はどうなっているのでしょうか。これもまったく知らなかったので驚いたのですが、聾学校では手話を認めず、徹底的に口話を教え込むのだそうです。とにかく発声練習をさせる。しかしその練習結果は本人にはわからない。そんな中、教育現場では「9歳の壁」という言葉が存在するそうです。ろうあ者は、聾学校の高等部を卒業したとしても、所詮9歳程度の学力しか身に付かない、といった意味だそうです。にわかには信じがたい話ですし、すべてのろうあ者にこれが当てはまるとは考えられませんが、もしこれが事実だとしたら、それは手話という言語に起因するものなのか、それとも教育方法に起因するものなのか?この本では結論を出していませんが、これはいずれにしても健常者も向き合わなければならない課題のように思います(思い出したのは、ヘレン・ケラーとサリバン先生の「奇跡」です。まあこれは特例中の特例だとは思いますが)。

いずれにしても、独自の言語を用いているろうあ者の人々は、独自の文化を持ち、独自のコミュニティで生きているといっても過言ではないのかもしれません。例えば、手話には敬称も敬語もなく、直接的な表現が好まれるとのこと。日本語とはまさに別世界です。そんな独特のコミュニティの中、ろうあ者同士が結婚する確率は9割以上と言われているそうです。個人的には、それは今まで漠然と描いていた「耳の不自由な人たち」という括りでは到底表現できない課題を内包している事実だと思いました。


最後に、著者はなぜ福祉が触法障害者を避ける傾向にあるのかという理由を推測しています。ひとつには、給付金の関係。日本の福祉行政では、障害程度を日常生活動作という尺度でしか算定しないのだそうです。だから、福祉施設としては、「食事や入浴の介護が必要な人」は受け入れても、「罪を犯すおそれのあるが身の回りのことはできる障害者」は受け入れても何のメリットもない、ということになります。一方で、身元引受人のいない受刑者たちを出所後に受け入れる更生保護施設はどうかというと、こちらには福祉的介助スキルがないのです。

著者は、出所後の触法障害者の消息を訪ねていますが、やはり再犯が多く、それをかろうじて免れている人も、「路上生活者」「ヤクザの三下」「閉鎖病棟への入院」「自殺」「変死」というやりきれないその後を送っているとのこと。触法障害者のその後を見る福祉システムは存在しないということなのでしょうか。


以上、まったく自分の知らない世界のオンパレードで、個人的にはかなりショックを受けたわけですが、この著者には、こういう問題が存在していることを教えてくださったことに感謝したいと思います。実は著者・山本氏は、衆議院議員時代に秘書の給与流用で実刑判決を受け、実際に服役した人物。氏はこの経験と真摯な取材を通じて、重要な問題提起をしてくださいました。過ちから多くを学び、意義のある仕事を成し遂げている氏には賛辞を贈りたいと思います。

*1:個人的には、例えば日本語と英語でも、それを使用する人の思考パターンなどに影響があるような気がしています。そんな研究ってないんでしょうかね。探していても見つからないのですが。