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主治医による「怪物的反逆児」の記録-李志綏「毛沢東の私生活」

2月9日のメモにfujikumiさんからいただいたコメントで、ポル・ポトのやったことと文化大革命の類似性を指摘していただきました。で、以前読んだ毛沢東についての本を思い出したので、そのときとったメモをここにアップしてみます。

毛沢東の私生活〈上〉 (文春文庫)

22年間、主治医として毛沢東に付き添った著者ならではの記録。毛沢東が既に中国の最高権力者となっていた1955年頃から死去する1976年までを中心に記述してあります。毛沢東や共産党幹部の驚くべきエピソードが満載ですが、いわゆる暴露本という印象はありませんでした。医師らしく、個人的な感情と事実を峻別して書いてあることと、上下計約1,000ページというボリュームを書き上げたエネルギーからそう感じたに過ぎないのですが。まあいずれにしても非常に読み応えのある本でした。

以下に、読んでいて驚いた箇所をピックアップしてみます。結局、毛沢東は悪い意味での「怪物的反逆児」だったということでしょうか。

(以下、要約してあります。)

・毛沢東は1年に200回程度しか寝なかった。48時間ずっと起きていたと思えば、12時間ほど眠り続ける。不眠症でもあった。

・毛は重要な会議や演説があると不眠症がひどくなり、それらが終わった後はよく風邪をひいた*1

・因習や慣例をうち破る性格から、周囲の人間を上記の生活リズムに合わせさせるだけでなく、時刻表にも反逆し、特別列車で気まぐれな発車・停車を続けた。

・相当な水泳好きで、執務室にプールがあったほか、移動先でも泳いだし、危険で汚い河でも周囲の反対を聞かず泳ぐこともあった。

・薬や手術が嫌いで、死の直前でも医師の勧める治療を受けようとしないことが多かった。入浴を嫌い、熱いタオルで体を拭いてもらうことを好んだ。歯磨きもせず、茶で口をゆすいだ。性病を持っていたが、女性にのみ症状が出るものだったので治療の必要性を認識せず、死ぬまで保菌者だった。

・晩年は特に漁色ぶりが激しくなった。ダンスを好み週数回催したが、ダンスホールの脇には毛専用の「休憩所」があった。極貧の農村の娘など、共産党のおかげで生きていられるような女性をここでリクルートした。娘たちは毛を心から崇拝し、性病をうつされても名誉に考えていた。家族や親戚を紹介することさえあった。

・しょっちゅう歴史書を読んでいた。お気に入りの皇帝は殷の紂(ちゅう)王、始皇帝、煬帝、則天武后など*2

・1954年のインドのネルー首相との会談では、「原子爆弾など恐れるに足りない」「中国には人間がたくさんいる。一千万か二千万の人間が死んだところで恐れるに足りない」と述べ、1957年の訪ソでは、3億の人民を失うことも辞さない、人間ならいくらでも生産できるのだから、と述べた。

・毛は何よりも忠誠を求めた。それは親愛の情などではなく、依存関係に基づいていた。つまり、毛はまず相手を魅了し、信頼感を抱かせてから過去の誤りを告白させる。毛はそれを許し、救済して安心感を与える、といった具合に。

・1958年の夏、中国全土で貯水池開削計画がはじまり、人民が汗を流した。「知識人は汗を流せ」ということで党幹部や医師である著者も労働に服した。毛沢東は1時間だけこれに参加した。

・「大躍進」の際、最初は毛もその異常な農業生産高を疑いの目で見ていたが、その後はそれを信じるようになった。

その他、林彪がこんな問題を抱えていたとは知りませんでした。

・林彪(毛沢東の後継者に指名されるが、毛暗殺を企てたことがばれモンゴルに逃走中飛行機が墜落して死亡した、とされる)は水を極度に嫌い、水の音を聞いただけで瞬間性の下痢になった(トイレも使わず、専用の便器を用いた)。摂取する水分は水を含ませたまんじゅうだけだった。

*1:これ、かなり意外でした。剛胆だけど小心者?リーダーはそうであるべき、とも言われますが。

*2:やば目の皇帝ばっかり・・・強力なリーダーシップはあるかもしれないけど暴君とも言われる毀誉褒貶の激しい人ばっかりですね。


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